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大東亜戦争(=太平洋戦争)における最大の激戦地と言われる、現在はインドネシア領「ニューギニア・ビアク島(Biak_New-Guinea)に一兵卒として派遣され生還した、山形県飽海郡遊佐町野沢出身「渋谷惣作」の戦争体験記です。
ビアク島戦(Battle of Biak)は「絶対国防圏の天王山」と位置づけられ、ミッドウェー戦やガダルカナル島戦以降劣勢に回った日本軍が起死回生を図るため、当時、装備・兵の士気ともに日本軍最強師団と言われた、青森、岩手、秋田、山形県の東北健児で編成された陸軍36師団(師団長・田上八郎中将、参謀長・今田新太郎少将)・歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)3,815名を中心に、海軍陸戦隊1,947名、後方支援部隊約7千2百名を合わせ、約1万3千名の守備隊が派遣されました。
222連隊のビアク島上陸は昭和18年12月25日、そして、米軍第41歩兵師団約3万名がビアク島に上陸を開始した日は、5か月後の昭和19年5月27日(海軍記念日)の早朝のことでした。陸軍最強を誇る222連隊の善戦により、飛行場占領の予定が大幅に遅れた米軍は、第34歩兵連隊を追加投入、第41歩兵師団長ホレース・ヒュラー少将を解任し、第1軍団長アイケルバーガー中将が直接作戦指揮を執ったと言う。この不撤退の米軍に対し、222連隊等の将兵は応援の無きまま約1か月間、ビアク島を死守すべく勇敢に戦いましたが、88名(0.6パーセント)を残し全滅しています。
後に「北のアッツ島(戦死2,638名、生還27名)、南のビアク島」と評され、壮絶な玉砕の島として、それぞれ戦史に名を残していますが、本土から食料、弾薬等の補給を絶たれた日本軍の南海の孤島での戦闘が、いかに激しく厳しいものであったかは、この生き残りの数字が裏づけています。生還された方々も、年々減少している今日、「体験の記録を残すことは、生き残った者の使命と思い、生き恥を忍んで記録します。」と、思い出される限りの、戦友や上官の名前を上げて当時の様子を克明に語っています。
尚、著者が所属していた「第222連隊・第一大隊・第二中隊「工兵中隊」(当時230名 余)からは3名生還していますが、親交深かったお二人も鬼籍に入られ、工兵中隊が全滅していく様子を知る者は只一人となっております。 |
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渋谷惣作は2005年8月18日死去。よって、矛盾する箇所がありますがご理解をお願いします。このたび、惣作がビアク島から生還後の話題と共に野沢の地図、野沢の人々、野沢の歴史、野沢の話題(13話) 、野沢の話題 2(4話)を追加しています。 |
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〒999-8303 山形県飽海郡遊佐町野沢上ク子添 - Google マップ |
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