昭和19年10月始めのことだった。
歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵と私は、栄養失調でやせ衰えた体で発電所の
ゴミ捨て場を目指していた。
6尺棒にもたれつき中風の人が歩くような二人に、後方から「ヘィ・ヘィ」と敵兵の甲高い声がした。
驚いて立ちすくんだ。
戦う気力も、走って逃げる体力も残っていなかった。
二人は重病人が支えられるように簡単に捕まりジープに乗せられ、いつか私がパンを盗みに入った
発電所に連れて行かれた。
発電所の一室で椅子に座らされ、銃を構えた四人の敵兵に囲まれ黙っていた。
当時の軍人は「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」と教えられ、捕虜になるくらいなら
潔く死ぬことを美徳とされていた。
しかし動物同様の生活を余儀なくされ、軍人としての誇りも人格も失った今この時に
それを期待することは無理なことであったと思う。
我々がいる部屋に、黒々とした頭髪の日本人の顔だちをした体格の良い青年が入って来た。
米軍の通訳であった。
まず我々二人に、「長い間ご苦労だったね」と労いの言葉を掛けて来た。
何年間も荒々しい軍隊言葉に馴染んでいた我々にとって、通訳の日本語は初めて耳にする
優しい言葉であった。
まず名前を書かされ、「所属部隊は」「兵隊に来て、家庭では扶助料を貰っているか」
「島には何人位の日本兵が残っているか」等と聴取された。
私は「他に日本兵は見ていない」こと等を説明した。
通訳の青年も自己紹介した。
「父は青森、母は京都生まれです。名古屋に住んでいましたが、ハワイに移住したそうです。
私はハワイの日系二世で、戦争開始と同時に徴用され戦地で通訳をしています。」
「私には祖国が二つあると思っています。」「いずれが勝っても負けても辛い立場です」と語った。
私は無言のままうなずいた。戦争がもたらす悲劇にはこのような所にもあることを知った。
通訳は重ねて言う、「あなた方の体が元に戻るには、2・3年は掛かるね」。
その同情の言葉に頭が下がった。
事実、体力に自信が持てるようになるまでに、それから約3年の歳月を要した。
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