米軍上陸から約三か月が過ぎ、昭和19年9月に入っていた。
この頃には、日本兵の姿を見掛けることは全く無かった。
この島には生き延びている日本兵は、我々しかいないのではないかと思うくらい、静かであった。
その頃の我々の姿を説明する。
私は昭和19年2月15日付で兵長任命以来、バリカンを頭に入れてなく髪は首筋まで伸び、
髭は伸び放題、猿より男振りは悪い。
軍服も汚れに汚れ、たまにスコールが降れば雨水で洗ったが、浮浪者よりみすぼらしい。
栄養不足で痩せこけ、手足の骨が浮いている。
わずかに軍人と分かるのは、軍帽と腰の帯剣だけであった。3人共似たような格好である。
夜は食糧探し、明ければ洞窟に潜み、祖国の話しや身の上話し、最後はやはり食い物のことである。
これまでも草や木の実は勿論、ネズミにヘビ、トカゲ等々何でも食った。
そのうち、二人は以前に盗んで食べた食パンの味を思い出したのか、「渋谷、三人で発電所に行こう」と言い出した。
私は、前回余りにも恐ろしい体験をしたので行く気になれなかったが、空腹に負け、いつしか発電所近くに来ていた。
私は道を知っているので先になって歩いていたが、粕谷がどうしたわけか横道に入って行った。
と、そのとき粕谷が草むらに敷設した地雷の線にひっ掛かったのである。
粕谷の直ぐ近くで一瞬青白い煙が「ボッー」と上がった。
私は「地雷」と叫んで伏せたが、立って逃げた二人のすぐ後で「ドカーン」と爆発した。
千葉幸一は即死。粕谷博は虫の息だった。
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最期まで行動を共にした「千葉幸一」 |
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私は粕谷の頭を膝に抱き、「粕谷頑張れ、藤崎に一緒に帰ろう。頑張れ。」と何度も繰り返したが、
首を縦に振り頷くが言葉に成らない。
腹部貫通と大腿部盲貫の重傷である。どうすることも出来ず30分程で死んだ。
粕谷博の実家は、山形県遊佐町上藤崎、私の実家の野沢から約6キロの村だった。
私は二人を並べて寝かし、草を被せた。
とうとう一人ぼっちになった。
爆発音で敵が様子を見に来る恐れがあったが、直ぐには立ち去りがたかった。
草を分けては二人の顔を何度も見た。祖国に帰り、やりたいことが一杯あったであろう。
幾度も激しい砲弾をくぐり抜け、飢えや寂しさと戦いこれまで生きた延びた二人とは、
是非、一緒に帰還したかった。
良き戦友として、生涯の付き合いになったであろう。
一人になった私は、どうすれば良いか分からなかった。
私も自決しようと思った。
そう思うと親、兄弟、親戚のこと、恋しい人のこと、次から次へと浮かび、直ぐには決心が
付かないまま浅い眠りに入った。
うとうとしては目が覚め、又、死ぬぞと思った。隣には粕谷と千葉の亡骸があった。
一緒にここで眠るのが自然と思えた。
このまま生き延びるより死ぬ方がずっと楽であり簡単に思えた。
しかし、じっと二人を見ていると、二人は「生きて帰えろ、郷里にこのことを伝えてくれ、
お前しかいないじゃないか。」と言った。

言ったように聞こえた。
夢か現実(うつつ)か分からない妄想の一夜は続いた。
小鳥のさえずりで目が覚めた。朝日が昇りジャングルに命の息吹がまた蘇った。
いつに無く、草木も動物も生き生きして見えた。
今度は、何としても生きて祖国に帰り、この惨状を伝える必要があると決意した。
私は、二人の亡骸に近寄り、二人の小指の爪をかじり取り、軍票(軍が発行した紙幣)に包んだ。
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