11 ジャングルの彷徨
 工兵中隊約200名は、とうとう8名に減ってしまった。

その名は
○佐藤長平 中尉・中隊長(福島県国見町)

○渋谷惣作 兵長
○加藤友治 兵長
粕谷辰治 一等兵
○粕谷 博 一等兵
○千葉幸一 一等兵(岩手県一ノ関市)
○阿部文治 上等兵
○熊谷正蔵 上等兵

 生き残った我々8名は、来る日も来る日も山中を彷徨した。
すでに、部隊などと呼べる姿ではなかった。さまよう目的は、単に食べ物捜しであった。
「衣食足りて礼節を知る」と言うが、今の状態は浮浪者以下、いや人間以下であった。
軍隊は、規律正しく整然と行動している時こそ強さと頼もしさを発揮するが、これを失った時は、
余りにも浅ましく醜いものと思えた。

 我々は、今日を生きるようとする本能だけで彷徨する動物であった。
 異常な飢餓状態は、例外なく人間を獣に変えてしまうことを我が身を持って体験したのである。

 昭和19年7月23日、私は満22歳の誕生日をビアク島のジャングルの中で迎えた。
 既に戦火は止んでいたが、米軍は敗走する日本軍を見つけるため、明るい内は島内をくまなく
捜し回っていた。
 我々は昼は山中に隠れ、夜だけ行動した。

 ここで私達が、何を食料にしていたかを説明しておく。
 ビアク島には、野生の椰子の実やマンゴー、サンゴヤシの新芽、バナナの根(大根のような味)
等が、季節に関係なく植生しており、これらを手当たりに食べた。
 甘いものばかり食べると、無性に塩分を欲した。
 海水は島周辺にいくらあっても、海岸線は何処も敵がテントを張っていて昼間は行くことが
出来なかったが、夜、暗闇にまぎれて海に出て海水を飲んだ
水筒にも海水を入れておいた。

 海岸には、敵味方の腐乱した遺体が無造作に散乱し、その近くには無数の魚貝が集まっていた。
つまり、遺体は魚貝のえさになっていたのである。
 しかし、背に腹は代えられず暗闇に紛れて浜辺に出て、種々の貝を捕り、よく食したが決まって
下痢をした。出来れば、焼くか煮て食べたいところだったが、火を使うことは出来なかった。
煙が立ち敵に発見されるおそれがあったのだ。

 戦友らの名誉のために付け加えておくが、帰国後、特に帰還兵は飢餓に耐えられず、戦友の人肉を食した等の批評をされたことがあったが、そのようなこと、あり得ないことである。
 当時の我々軍人に、そのような発想は生まれもしないし、また、南国の気候は、遺体を1日もしないうちに腐敗させていたのだ。

 食糧調達にはこんなこともあった。
島北部、ソリド部落にはソリド川が流れており、その周辺に現地人が耕作するタロイモ畑があった。
 そのイモ掘りを計画した。つまり泥棒である。
ところが出発の日に、佐藤中隊長が高熱を出したのでジャングルの木陰に草を枕に寝かせ、

加藤友治兵長
粕谷辰治一等兵を看病のため残し、我々5人で出発した。
この5名は
    ○ 渋谷 惣作 兵長 
    ○ 粕谷  博 一等兵
    ○ 千葉 幸一 一等兵
    ○ 阿部 文治 上等兵
    ○ 熊谷 正蔵 上等兵

であった。

 鬱蒼とし、昼なお暗いジャングルの中を、衰弱した体を6尺棒で支えよたよた歩き続けた。
 帯剣も帰路の目印に、木の皮に印を付けるときや、芋掘り等に使う道具に化していた。
原住民の通る道は歩くことは出来なかった。
粕谷辰治一等兵は、中隊長の看病のために残ったが、後に米軍野戦病院で再会する。(生還・後に三浦姓)
 既に原住民は敵方に宣撫され、日本兵を発見し米軍に報告すると褒美を貰っていたのである。
 我々5名は道無き道を、帯剣で目印に木の皮を剥ぎつつ、ただ黙々と歩いた。
藤つるや木の根につまずきながらも歩くこと二日間、ようやく目的の畑に着いた。
月明かりを頼りに、帯剣でイモを堀り生のまま食べ、又、掘り続けていたら夜が明けた。
山の中に隠れて一眠りし、中隊長達の所に戻ることにした。
 衰弱し切った体には沢山のイモは背負えず、皆適当な量を背負い、又、木に付けた目印を頼りに
よたよた歩き始めた。
 皆何を思っているのか、父母・兄弟あるいは妻子のことか。
この先どうなるのか明日をも知れない命に、いつも思うことは祖国のことばかり、悔しさと寂しさが交差し、
泥と汗にまみれた頬に涙が伝う。
 時おり、猿の鳴き声がジャングルの静寂を破る。「キキ」「ツツ」と、甲高く鳴きながら木から木へ
と身軽に伝う猿達を羨ましく思う。

 この島には私が見た限りでは猿が一番大きな動物であり、人を襲う猛禽類はいなかったことが幸いした。
派手な色彩の極楽鳥は良く見かけ、食べ物にしたかったが、とても捕まえられるものではなかった。
 島内のいたるところに激しい戦いの跡が残っていた。
散乱する戦友の屍辺りには、血なまぐさい空気が漂っていた。南国の暑さで腐敗も早く、
既に白骨と化したものも多い。
そっと手を合わせつつ、明日の我が身の姿を想像した。
 ジャングルを一日中歩き続け夜になった。遠くに明かりが見えて来た。
粕谷博一等兵が確認して来て、「敵がテントを張っている。通り抜け出来ない。」と言う。
その地点を迂回しようとしたが、元の道に戻れない。完全に道に迷った。
マラリヤ熱を出す者も出てきたが、お互いに助け合いながら山草、木の実等を食べながら毎夜歩く。

 そのうち、阿部上等兵の様子がおかしくなった。
「俺の指9本しかない」とか「豆腐を食いたい」等と言い出す、「阿部どうした」と聞いても、
ニヤニヤ笑っているだけ、何の手当てもしてやれずに、一眠りしていたら死んでいた。
 それから10日もたったろうか、今度は熊谷正蔵上等兵が動けなくなった。
 ボスネックの裏山の小さな洞窟で看病したが、2日目で死んだ。
空腹と疲労とマラリヤ熱が重なり、皆倒れて行く。ついに3人になった。
    ○ 渋谷 惣作 兵 長 
    ○ 粕谷  博 一等兵
    ○ 千葉 幸一 一等兵


残った三人を見れば、私が一番体力を残しているように思えた。私は決心した。
 「夕方暗くなり始めたら、食べ物を探して来るからお前達は、イモでも食っていろ。」と言い残し、
現地人から手に入れた背負い籠を背に出発した。
 私は敵から、食糧を奪って来ることを計画したのである。
 目指した所は、米軍の屯舎内にある火力発電所であった。
月明かりを頼りに発電所に接近すると、ゴーゴーと発電音が高鳴っていた。
 背負い籠は近くに置いて宿舎の床下に潜り込んだ。5〜6の警備兵しかいないことが分かった。
床下に2〜3時間潜み、敵兵が寝静まるのを待って、食堂に侵入し食パンをあるだけ盗んだ。

満月が青白く輝く夜であった。
敵陣の食料とは言え、多少の良心の呵責を覚えながらも、皆が喜ぶ姿を思いつつ急いで戻った。
3人共久しぶりの食べ物に舌つづみを打った。
 粕谷博が声をかけて来た、「渋谷、俺の家は下藤崎の西遊佐小学校の角から3軒目だ。
帰ったら遊びに来てくれ、今日のお返しをたっぷりするぞ。」、「ああ行くぞ。」と生返事をすると、
千葉幸一も「そのときは豆腐をたらふく喰いたいな。」と話しに加わってきた。
帰還できるあてなど全くない現状を、皆認識しながらの、夢のような会話であった。
そのうち白じら夜が明けて来た。

 我々は朝日を眺めながら、今日も生き延びたことを、確認しあっていた。
 
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