3 北支より南方へ
 昭和18年1月頃と思う。
 私は、第一大隊・第二中隊(中隊長佐藤長平中尉福島県国見町出身)第三小隊の教育班に配属された。
 第三教育班は15名の班だった。
 三か月の教育期間も終わり、全員一等兵に昇進した。昇進して間もなく「十八春太行作戦(じゅうはっしゅん・たこうさくせん)」に出動することになった。路城作戦、佛山の戦闘など、山西省の八路軍(中国共産党が抗日のため創設したうち、華北主力の軍)討伐の戦いで二か月間も掛かった戦闘であった。 
 
 昭和18年4月頃であった。
 北支の梅雨は早く毎日のように雨に打たれた。雨が10日も続いたために「定史村(ていしそん)」の橋が流された。我々工兵隊木工班は、その橋掛け作業に従事する。昼夜の連続作業で、命綱を頼りに濁流と闘いながら働いた。

 ちなみに、軍隊における工兵隊の任務は、軍隊の技術集団であり、交通、築城、架橋、爆破、兵舎造り等々と幅広く、戦場においては、歩兵・砲兵そして工兵は地上戦の最低限の組み合わせとされた。
 特に、工兵は特殊技術を要する集団であり、“戦場の技術者”と呼ばれ重宝がられた。
我々工兵隊は、このような作業も任務だった。
 日本陸軍の歌「工兵」では、
  「道なき方に道を付け、敵の鉄道撃ち毀ち、雨と散り来る弾丸を、身にあびながら橋かけて、
  我が軍わたす工兵の、功労何にか譬ふべき
」と歌われた。

 私は、15歳から5年間、札幌の叔父方で大工職の弟子入りをしており、「工兵隊の木工班」10名のうちの一人として、その技術は最大限に発揮する必要があった。
 10名のうち、大工経験者は8名であった。
  
 その頃、我々に南方行きの報が流された。
 しかし、南方のどの辺りに派遣されるのか我々一兵卒は全くわからなかった。

 昭和18年2月、ガダルカナル島を完全に手中にした米軍は、この島を反攻の拠点とし、マッカーサー大将(後に元帥)の陸軍と、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将(後に元帥)率いる海軍が二手に分かれて侵攻が開始された。

 マッカーサーは、ブーゲンビルからフィリピン方向に、一方のニミッツはマキン島、タラワ島、サイパン、硫黄島へと飛び石作戦で兵力を北上させ、制空権、制海権を伸張しつつ、大々的反攻を繰り返し、日本本土攻撃を目指したのである。

 米軍は、この侵攻作戦を車の両輪にたとえて「カートホイール作戦」と呼んでいた。
 なお、この陸海両総司令官の二人三脚はそのまま終戦まで続いた。
 メンツの主張や縄張り争いが多かったという帝国陸海軍と違い、米国陸海軍の息はぴったり合っていた。 

 さて、昭和17年4月18日、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で米軍機に撃墜され、「連合艦隊司令長官・山本五十六大将」の戦死後は、益々その勢いを増し、ニューギニア、ソロモン地区の占領地域では、連合軍の猛攻撃に敢え無く次々と奪回され、日本軍は玉砕・敗走を重ねていたのである。

 しかし、大本営は、昭和18年9月30日、「今後採ルヘキ戦争ノ指導ノ大綱」(絶対国防圏構想)を設定し、その防衛圏維持のため、既に満州等に配置されていた部隊を、南方に転用する方針が決定していた。
 この方針により、猛部隊として勇名を馳せた関東軍をはじめ、我々が所属する第36師団に南方派遣の白羽の矢が放たれたのである。

 第36師団3個連隊は、青森・岩手・秋田・山形の東北4県出身者を中心に編成され、「朴訥で粘り強い性格でありながら、戦闘においては勇猛果敢、困難に耐える強靭さを持つ、日本軍最強の師団」等と、今となっては、少しも有り難く無い評価を受けていた。

 事実、私が参加した幾多の戦闘においても連戦連勝、不敗を誇り、敵陣にもその名を轟かせていた。
 因みに、36師団は、
  ◎ 歩兵222連隊「弘前編成、秘匿名・雪3523部隊、連隊長・葛目直幸大佐」3815名
  ◎ 歩兵223連隊「秋田編成、秘匿名・雪3524部隊、連隊長・吉野直靖大佐」
  ◎ 歩兵224連隊「山形編成、秘匿名・雪3525部隊、連隊長・松山宗右衛門大佐」
の3個連隊であった。

 いよいよ、南方行きの日がやって来た。
 山西省を馬糞の臭いが残る貨物列車で転々と南下する。
 食事時は大変な込み合いで、各地区の兵站分より配られる飯盒を両手に、食事当番は忙しい。馬糞臭い貨車の中の食事は、戦地だからこそ辛抱出来たことである。
 南京、上海、砲台、北ウースン(上海呉松)と各地を転々としながら江湾港に着いたのは、昭和18年12月に入っていた。すぐにも、通称名「雪師団」軍属合わせて5・6万の大兵団は、江湾港で数十隻の輸送船に分乗する。
 そして、護衛の駆逐艦等とともに一路南方目指して、太平洋の荒波に乗り出して行った。
 翌日夕方に台湾高雄に入港し、停泊すること二泊。入港と同時に港近くの銭湯に行った。
 久しぶりの風呂に皆生き返った顔付きであった。
 その後、パジー海峡を4・5日かかって、フィリピン島マニラに入港した。

 マニラでは一週間も停泊し、更に南下し、フィリピン島中部のセブ島に停泊し、我々工兵隊木工班10人が上陸した。目的は、南方に着いてから兵舎作りの参考にするため、島民の住居等を何軒か見学させて貰う。

 木工班10名のうち、大工経験者は8名だった。
 戦地ではどこに行っても、なにかと建築作業が伴い、大工経験者はいろなん面で重宝がられたものだ。見学を終えると直ぐに乗船し、更に南下を続け、着いて分かったがミンダオ島であった。

 半日位して再び出発。昭和18年12月21日、最後に補給のため立ち寄った島はハルマヘラ島だった。

 補給を終えると再び南下を続けたが、ここまで来ても、何処へ行くのか我々一兵卒には一切知らされていなかった。 

セブ島(Cebu Island)
 セブ島(Cebu Island)は、フィリピン中部のヴィサヤ諸島にある島で、南北に225kmに渡って伸びる細長くて大きな島である。

 面積は4422平方km。周囲はマクタン島、バンタヤン島、マラパスカ島、オランゴ島など小さな島々に囲まれている。
 十八春太行作戦(じゅうはっしゅん・たこうさくせん)」とは、

日本陸軍
作詞:大和田建樹

作曲:深沢登代吉

(出陣)
天に代りて不義を討つ
忠勇無双の我兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出で立つ父母の国
勝たずば生きて還らじと
誓ふ心の勇ましさ

(斥候)
或は草に伏し隠れ
或は水に飛び入りて
万死恐れず敵情を
視察し帰る斥候兵
肩に懸かれる一軍の
安危は如何に重からん

(工兵)
道なき方に道を付け
敵の鉄道撃ち毀ち
雨と散り来る弾丸を
身にあびながら橋かけて
我が軍わたす工兵の
功労何にか譬ふべき

(砲兵)
鍬とる工兵助けつつ
銃とる歩兵助けつつ
敵を沈黙せしめたる
我軍隊の砲弾は
放つに中らぬ方もなく
其声天地に轟けり

(歩兵)
一斉射撃の銃先に
敵の気力をひるませて
鉄条網も物かはと
踊り越えたる塁上に
立てし誉の日章旗
皆我歩兵の働きぞ


(騎兵)
撃たれて逃げゆく八方の
敵を追ひ伏せ追散らし
全軍残らず撃ち破る
騎兵の任務重ければ
我が乗る馬を子の如く
いたはる人もあるぞかし

(輜重兵)
砲工歩騎の兵強く
連戦連捷せしことは
百難冒して輸送する
兵糧輜重のたまものぞ
忘るな一日遅れなば
一日堪ゆたふ兵力を

(衛生兵)
戦地に名誉の負傷して
収容せらるる将卒の
命と頼むは衛生隊
ひとり味方の兵のみか
敵をも隔てぬ同仁の
慈けよ思へば君の恩

(凱旋)
内には至仁の君いまし
外には忠武の兵ありて
我手に握りし戦捷の
誉は正義の凱歌ぞ
謝せよ国民大呼して
我が陸軍の勲功を

(平和)
戦雲東に治まりて
昇る朝日と諸共に
輝く仁義の名も高く
知らるる亜細亜の日の出国
光目出度仰がるる
時こそ来ぬれいざ励め

 
入隊〜出征 4輸送船団
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