17 戦友の実家
 家に帰り、気持ちが緩んだのか翌日に少し熱が出た。
三日熱マラリアである。熱が上がり悪寒が激しく、震える病気である。
妹達が付きっきりで看病したらしく、気が付いたら二人とも枕元にいた。
余りの熱と上言に驚いたのは親達で、「せっかく帰って来たのに、ここで死なれては可愛そうだ。」
と言いながら、「村上医者」を呼んだそうだ。
40度の高熱が続き顔は真っ赤になっていたという。
 三日熱マラリアという病名のとおり、3日も経ったら熱も下がり平常になった。
油汗を流し上言まで言っていた病気が嘘のように治った。
祖母の金代ババチャが声を掛けて来た。
「お前はずいぶん上言を言ってたが、粕谷って何処の人だ」と言う。
「そうだったのか」と思った。
粕谷博は、最後まで一緒にジャングルを共にしたが、最期は目の前で地雷で戦死している。
 私の生還の陰には、戦友の死という切ない事実があり、どのように粕谷の実家に報告しようかと、
ずうーと悩んでいたことだった。それが上言になったのであろう。
 あの時、発電所に行き地雷に触れることが無かったら、一緒に郷里に帰り、本当の兄弟のように
付き合えた男だった。
「俺だけ帰って来た。」等と、どうして粕谷の実家に行けよう。
しかし、祖父母に「早く行った方がいい、だんだん行きにくくなる」と諭され、妹の京子と乙女の二人に引かせたリヤカーに乗り、約6キ口離れた上藤崎の粕谷の家に向かった。
 せめて、戦死した際、持参軍票に包んだ小指の爪を遺品として持参したかったが、
捕虜になったとき、所持品は全て没収されてしまっていた。
 粕谷の両親に、事の次第を話した。
 きっと息子の生還を期待していたろうに、私に最期の様子を聞いて、きっと無念だったに違いない。
しかし、額きながらも気強く話しを聞いてくれた。
 粕谷の母が「不思議なことがあります」と教えてくれた。
「4月7日夜は、障子の戸がサラサラ音がし、なぜか博が帰って来るような気がした」、
「ついさっきは、玄関で「オー」と博の声がしたので玄関を見たが誰も居なかった。
驚かすつもりで隠れていると思い、玄関に出て「博、博』 と呼んだ。」と言う。
 これらの出来事は、日にちと言い、その時間といい、私が上言で粕谷の名前を呼んでいた時間で
あり、又、私がリヤカーで粕谷の家に向かっている時間である。
 思えば、山中で虫の息の粕谷を抱き「お前は藤崎だな、一緒に帰るぞ」と何度も叫んだ。
粕谷はただ首を縦に振るだけだったが、私に自決を思い止まらせ、以来、その魂は私に付いて来て
守り通してくれたのだと思った。
 そう言えばあの時の「白い犬」は粕谷の化身だったのか。
鈴なりのトマト畑に私を案内し、泉田源吉上等兵と出会わせたことも、みんな粕谷の御霊のなした
ものだった。と私は信じている。

 私は毎年9月の粕谷の命日には、実家を訪れ仏壇にお参りをしている。
 しかし、位牌には「昭和19年6月没、粕谷博之霊位」とある。
 公報は、何を根拠にその日を戦死としたか知らないが、戦死したのは、昭和19年9月上旬であり、粕谷の最期を看取ったのは私である。
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