18  あとがき
   この手記の元となった記録は、ビアク島から帰還後、5ヶ月位たち、やっと生気を取り戻した昭和21年夏頃に記録したものです。(下段に一部ご紹介)
忘れないうちにと、出来る限り正確に記録したつもりです。
これを久しぶりに読み返すと当時のことが、昨日のことのように蘇って来たのです。
 あの頃は、まだ記憶に新しいうちに、正確に書き残しておきたく、次々に思い出される苦しみの数々や上官や戦友の姿、そして戦場の悲惨な状況を、脳裏に浮かぶがままに記録したものでした。
その断片的な記録をつなぎ合わせて整理したのが、この記録です。
今思えば、戦友らの名前等を、もっともっと記憶しておき記録しておけば良かったのにと思っていますが、出来る限りの名前を記載してあります。
 もっとも、読み返すと稚拙な内容ですが、
 この記録により、少なくとも私しか知らない戦友の最期の様子を、遺族の方々に伝えることが出来るものと思いますし、又、何かのご縁でこれを読まれた方々には、その当時の20歳前後の若者が、奇しくも遭遇してしまった戦争のことを、多少でも知って頂きたいものです。

序 文


 第36師団224連隊第1中隊所属

                    元・遊佐町議員議長  石垣 祐治

 第36師団、通称「雪部隊」は、東北六県出身者を基幹とする部隊で編成されていた。
 したがって、朴納で粘り強い東北人特有の性格を持ち、戦闘においては勇猛果敢、しかも困難に絶える強靭さを有する精鋭なる師団として軍部に認められていた。
 隷属部隊として222連隊(主に岩手県出身者)、223連隊(主に秋田県出身者)、224連隊(主に山形県出身者)の3個連隊に加え、特科部隊が配属されていた。
 山形県出身の渋谷惣作氏が、大部分が岩手県出身者の222連隊に配属されたのは、職業としていた大工の腕を見込まれ、工兵隊という特科部隊に配属されていたからと思われる。
 そして、ニューギニア島北西部に位置するビアク島派遣となることは、運命というものであろう。
さて師団の隷属部隊であった歩兵第222連隊(連隊長・葛目直幸大佐)及び直轄部隊の一部は、「ビアク島」派遣ということになり、昭和18年12月24日、洋上において師団長の指揮を離れ、ビアク島に上陸、第2軍の指揮下に入る。
 その数約一万人であった。
 しかし、米軍も戦略的にも要衝にあるビアク島を黙って見てはいなかった。
 大飛行場の建設に適し、日本軍陣地を攻撃できる好位置にあることに着目したマッカーサー
は、日本軍上陸の約5か月後の昭和19年5月27日、ついに米軍1個師団で「ビアク島」に上陸を敢行、激しい戦闘となり、昭和19年7月2日には連隊長の葛目大佐が自 して、終戦まで生存せる者僅か1パーセントに満たない88名、正に生き残った者は奇跡であった。

 南浜のリーフの島「ビアク島」で、米軍との間に死闘を繰り広げた1万有余の日本軍将兵、その大部分が還らざる人となったが、わずかな生存者の一員として、ひっそり復員した渋谷惣作氏、戦後半世紀を経た今日、その感慨はいかばかりなものであろうか。
 願わくば、今後益々長命を保たれ、平和の守護神として我らを見守られんことを切に願望する。

昭和21年夏頃に記録したもの
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