ボスネック港付近は、兵員揚陸艇や水陸両用上陸戦車を上陸されるには格好の場所であった。
しかし、我々がいる洞窟はこの港から約百メートルの地点にあり、上陸すれば一早く発見される
場所でもあった。
一旦は、工兵中隊の本隊がある洞窟に退避を試みたが、艦砲射撃の物凄さに断念した。
後は銃を構えて敵を迎え撃つ態勢を取った。運を天に任せるよりなかった。
艦砲射撃は正午すぎにおさまり、いよいよ敵は兵員揚陸艇や水陸両用戦車で大挙して上陸してきた。
今度は激しい機関銃音であった。洞窟から出て迎え撃つにしても、あまりにも多勢に無勢であった。
その日の午後二時頃と思う。
洞窟の入り口方向から戦車のキャタビラ音が聞こえた。
いよいよ来たぞと思うや、「日本兵隊、居るか」と呼ぶスピーカーの大声にびっくりし、
銃を入り口方向に構えた。米軍の通訳の声であった。
この時、恐怖感に追い討ちをかけるような大声に驚いたのか、戦友の一人が反射的に「居ます」と返
事し、入口方向に歩き始めたのだ。
全員がこれで最期かと覚悟したその瞬間、鎌田分隊長は、「だめだ、やれ」とドスの効いた声で
藤巻一等兵に顎で命じた。
戦場において、「だめだ、やれ」とは、このような場合、仲間でも殺せとの暗黙の言葉であった。
藤巻一等兵は、帯剣を抜きながら素早く接近し、やむ得ずその兵を犠牲にした。
これが、戦場の厳しい掟であった。
遺族の方々も、まさか仲間に殺されたとは、思ってもいないだろう。
まもなく否応なしに、敵に殺される運命にある仲間を、このように殺害するがあったのかと、
今思うと何とも情けないことである。
それから間もなく、今度は入口方向から「ゴトン、ゴトン」とドラム缶が転がるような音がした、
と思うや、一気に火の手が上がった。
洞窟は一瞬にして火の穴と化した。 ガソリン入りのドラム缶数個を投げ込まれ火炎放射機で点火され
たのである。
さらに続いて、耳をつんざく衝撃音が洞窟内に走った。
我々の止めを刺すかのごとく、戦車砲から入口目掛けて5〜6発の砲弾が撃ち込まれたのである。
この強烈な衝撃で、洞窟内の岩盤が崩れ落ちた。
火炎と砲弾の攻撃に加え、岩盤の崩壊に私は死を覚悟した。
皆、耳を押さえながら、火炎で赤く照らされた洞窟の奥深くまで引き下がり、幾らかでも火の手から遠ざかった。
それでも洞窟内の温度は焦げつく程に上昇し、汗はだくだく流れ、酸素も欠乏し呼吸困難に陥った。
いつしか私は倒れていた。
どの位、気を失っていたか分からないが、虚ろな意識の中で、冷たい水が顔を濡らしていることに気が付いた。
岩盤の切れ間から冷たい水が流れ出ていたのだ。手のひらで隠れる程の小さな流れが、
僅かに空気を運び私を救ったことが分かった。呼吸が楽になると思い切りその水を呑んだ。
「恵みの水、救いの水」と思い涙が溢れた。
あの時の水の味は今も忘れられない。
洞窟内部は、まだゴーゴー音を出してガソリンが燃えていた。
私は「おーい、こっちに来い。水が流れているぞ。」と叫んで戦友を呼び寄せ
「水に鼻をくっつけろ、呼吸が楽になるぞー」と教えた。
生きている者は皆、腹這いになって鼻を水につけていた。
暫くして火の手も衰えると、また洞窟内は薄暗くなった。
敵は全滅したと判断したのか、この洞窟には再び攻撃して来なかった。
鎌田分隊長は、突然「生きている者名乗れ」と声を張り上げた。
薄暗い洞窟の中でそれぞれ名乗った。9名残っていた。
いや9名も生き残ったのは、不思議な状況であった。
もう最期かと諦め、入口近くで酒やビールを呑んでいた古兵達は、突然の火炎に巻き込まれ
一瞬にして死んでいたのである。
当然、入口近くに積んであった食糧は全部焼け焦げていた。
缶詰をはじめ、カルピスや酒等も沢山あったが何も残っていなかった。
これが米軍上陸一日目の出来事であった。
それから3日間、我々は洞窟の水だけで過ごした。
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