捕虜になって5日間位して、我々二人はビアク島の飛行場からニューギニア島の、ポーランジーに移されることになった。
簡単な診察を受け、更に飛行機でオーストラリアの、ブリスベン町に連れて行かれた。
今度は全身をくまなく診察され看護婦二人の付き添いで、ヘイという町の陸軍病院に列車で行き入院させられた。
白い敷布の上にゴムに似た感触の敷布を敷かれ、その上に寝かされた。
お湯で体を拭いてもらい、更に白い粉でマッサージをしてくれた。
終わると「ミスター渋谷、ノーめし」と言われ、今日は食事がないことを知らされた。
その時、「渋谷、渋谷」と呼ぶ声がした。
誰が呼ぶのかと回りを見渡すと病室には、20台位のベットが並んでいた。
起き上がり、声の方のベットに歩み寄った「誰だ」と尋ねると「粕谷だ」と応えた。
粕谷は地雷で戦死したのにと思ったが、同じ中隊には「粕谷」姓は二人いたことに気付いた。
「辰治か、良く生きていたな」と抱き合った。
粕谷辰治一等兵(山形県温海出身)は4か月前、病に倒れた佐藤中隊長の看病を頼み
ジャングルに置いてきたのであった。「生きていて良かったな」と言っては男泣きした。
「佐藤中隊長はどうした」と聞くと、マラリアと下痢で死んだと言う。
中隊長は「渋谷達は必ず探して帰って来る」と信じ、けっして動かなかったと言う。
最期まで我々を信じて死んだいった佐藤中隊長を思うと、胸の詰まる思いがした。
同じく中隊長に付き添っていた加藤友治兵長は、水を汲みに行ったまま帰えらなかったこと、
粕谷自身も一人になり山中を彷徨中捕虜になったこと等を一気に説明した。
私も密林の中で道に迷い、何日も探し回ったこと、他の四人も次々に戦死し一人ぼっちになったこと等を話した。
泣きながら語り合う二人に、隣のベットの人まで一緒に泣いてくれた。
翌日からは、食事を与えられた。お粥を少量から与えられ、普通食に戻るのまで15日を要した。
満足な食事を取ったのは、何か月ぶりか、生きていることを味わいながら頂いた。
米軍の我々に対する扱いは全体的に親切であり、度量の大きさを実感した。
衛生兵であった私は、日本軍の野戦病院も知っていたが、医療設備をはじめ何もかも上回っている
米軍の施設に、勝ち目のない戦であることを感じとった。
この米軍陸軍病院に入院したのは、昭和19年10月10日のことだった。
日本兵の入院患者は、我々を含め19名、退院は昭和19年12月26日であった。
退院後はニューギニア島ポーランジァの収容所に移され、特別養生棟に入れられた。
ここには、約1千40名の日本兵がいた。
殆どが、ニューギニアや周辺の島々で捕虜になった者で、皆痩せこけていた。
収容所仲間とも徐々に親しくなり、日本軍の苦戦の状況、特にニューギニア周辺の島々では、殆どの日本軍は全滅していることが分かった。
はっきりと「日本は負ける」と言う者も居た。
しかし、このような言葉は、当時禁句であったが、私も同意見だった。
捕虜生活は、帰国する昭和21年3月末まで、約1年5か月間続くことになった。
その間、私は大工の腕を生かし、「木工班」で玩具作り等して、一日3ペンスを貰った。
この収入で、収容所仲間にタバコや歯磨き等を買ってやり、喜ばれたものだった。
又、米国本土から取材にきて、「PX」という名の画報に、我々木工班の仕事振りが、写真入りで掲載されたこともあった。私も写っていた。
昭和20年7月23日、私は満23歳の誕生日を、ニューギニア島ポーランジァの捕虜収容所で迎えた。
二〇歳で出征し4年目、歳月の流れの早さをしみじみ感じていた。
捕虜に、米軍から戦況を伝えられることはなかったが、終戦のことはうわさで聞こえてきた。
広島や長崎に新型爆弾原爆が落とされたこと。
本土でもかなりの被害があること等は、それとなく置いてあるアメリカの新聞や雑誌で知ることが出来た。
この頃には、祖国のこと、郷里や家族のことまで心配する余裕が出てきた。
帰還出来る日は近いと確信していた。
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