1 祖母と「マムシ」を捕まえた話 |
「熊の胆一匁(もんめ)は金一匁」と言われ、乾燥させた熊の胆は、金と同じ値で取引されるという。さて、今回は「熊の胆」ではなく、「マムシの胆(きも)」や捕まえ方の話です。
マムシの胆も、「熊の胆」同様の価値があるとされます。
小生が小学校3・4年ころの、昭和35年ころの昔話を紹介したいと思います。
当時、祖母・鉄江は52〜3歳くらいですが、低血圧で貧血ぎみの人でした。ある日、小学校から帰えると、いきなり「コウエンチ(野沢の公園)さマムシ捕まえに行くぞ」と声を掛けられたのです。マムシの恐ろしさは子供でも知っていて、万が一噛まれたら2時間以内に血清を打てば大丈夫、血清は遊佐病院に常に準備してあると教わっていました。こんなことを今更説明しても、拒否出来る状況ではありません。
既に、いろいろ準備しており私が帰宅するのを待ち構えていたようでした。
祖母の夫である祖父・惣之吉は、小生が誕生する前年に死亡しており、祖母・鉄江の寂しさの紛らわしで、私は幼少時からあちらこちらに連れ回された記憶があります。因みに、小生は幼稚園には行っておらず、それに小学校前は汽車賃もタダだったのでカネがかからず便利だったのであろう。
周りからも、「ジチャ(祖父・惣之吉)の生まれ代わりだのぉ」などと良く言われながら育ったものです。私が50歳前後になると、惣作の妹の京子叔母からも「おめは、おれだの父親の惣之吉に良く似て来たの」と言われ、父・惣作に似ているよりいいかと思ったものです。
話を戻すと、既にマムシ捕りの七つ道具は玄関先に準備してあった。
藁で編んだ「てんご」には、軍手、小刀、マッチ、新聞紙に包まれた馬の蹄、水が入った一升瓶が入れてあり、更に先端がYの字になった1メートル程の棒二本も準備してあった。家からコウエンチ(野沢の公園)まで約1.5キロも歩くと、いかにもマムシがいそうな湿地の多い場所があります。
※右の写真は野沢公園の沼沿いですが、舗装やガードレール設置により昔の印象は全くありませんでした。
気の強い祖母だったが、さすがに女一人で行くのは怖かったのだろう。適当な場所に陣取ると、杉の枯れ葉や小枝を集めて、新聞紙を丸めてマッチで火をつけたき火を始めたのです。そして、程よく燃えると、火の中の馬の蹄をくべる。
馬の蹄が焦げると香ばしい香りに釣られて、マムシが寄って来るのだという。このことは、どこで聞いたのか覚えたのか知らないが、未だ真偽のほどは分からない。
馬の爪が燻されて香りが周囲に漂い始めると緊張して来る。
祖母・鉄江も「いいカン(匂い)して来たぞ、来っぞ!来っぞ!」と身を構えている。
二人で先端がYの字の棒きれを持ち、キョロキョロしながら辺りを見回す姿は今思い出しても滑稽だ。そんなことをして5分くらいも経ったら、本当に毒蛇特有の頭が三角のマムシが5メートルほど先に現れた。
「来た」と小声を掛けると、「棒で首を押さえろ」と言われる。
その程度の要領は子供でも分かっていたが、いざマムシに向かうとなると躊躇する。
2〜3メートル離れて数秒睨み合っていると、また「頭押さえろ」と指示される。
自分でやらないで、孫の子供にやらせるのだから勝ってなものだ。
仕方なしに歩を進め棒の先端がYの部分で押さえる。意外と簡単に捕まえることが出来た。
マムシは頭を押さえられると、胴体を棒にぐるぐる巻きになってきた。
これを見た祖母は、すかさず頭部分を長靴で踏み付け小刀で頭部分を切り落とした。
「マムシも頭が無ければこわぐねぇ」などと言うが、マムシは頭を落とされても元気がいい。
棒を離すと今度は祖母の出番だ。 祖母はマムシの胴辺りを手袋した手で握ると、その胴は手首にグルグル巻き付いていましたが、気にせずに胴の腹に小刀を入れ、ウナギの腹を広げる要領で切り裂いていました。
まず、黒っぽい小指の先程度の胆嚢を切り取る。
次に皮をはぐのだが、頭方向から尾に向かって引き落とすときれいに剥け、薄いピンク色の身だけの哀れな姿になっていました。
「引っ張れ」と言うので、二人で綱引きするように皮のほうを引っ張った。
この薄いピンク色身を竹串にS字に刺すが、マムシの生命力の凄さはここから発揮する。
何と竹串に刺されても身をくねさせている。
この日はもう一匹捕まえた。
これは、水が入った一升瓶に頭から入れた。
暫く水の中に入れたままにして排泄物を出させた後、マムシ酒にするのだという。
竹串に刺したマムシは小生が手に持って帰宅し、直ぐ囲炉裏で焼き始めた。
何と、息絶えたとばかり思っていたマムシが、火の熱さでまたグニョグニョ動き出した。
この生命力には恐れ行ったものだ。
このマムシ焼きは、父・惣作の晩酌のつまみに出すという。
父親はニューギニア・ビアク島からの帰還兵で、ジャングルを単独で半年も彷徨っていたのだが、その当時の主食は蛇やトカゲだったというから怖ろしい。
父親が帰宅すると、囲炉裏でほど良く焼けたマムシを見つけ舌鼓を打っている。
まず、身を柔らかくするために、スリコギで叩いて食べやすくしている。
「お前も食え」と切り身を一切れ渡された。
このときが、はじめてマムシを食べたと記憶している。
醤油を少々付けて食したが決して美味いものではない。
今なら、きっとマヨネーズだろう。
マムシ酒を作る要領も見ていたが、この話はまたの機会にする。
マムシの胆(きも)は祖母が数日乾燥させて、漢方薬として大切そうに煎じて飲んでいた。
なお、「まむしの胆」は肝臓ではなく胆嚢だ。
「蝮蛇胆(ふくだたん)」ともいい、熊胆(ゆうたん)」と並び珍重されている。
マムシ捕りは、その後も数回は連れていかれた。
いい経験になったとしか言いようがないが、他の人に奨めているわけではない。
この蛇にまつわる話は、後日談がある。
上京し間もない19歳のころ、文京区本駒込の富士神社の祭礼に「蛇娘」の見世物小屋が出たが、覗いて見ると、この蛇娘は祖母がマムシを処理するときの姿と同じだった。
これを見た直後に帰省した際、祖母たちに「ババチャはいつでも蛇娘が出来ると思う」と語ると、「蛇ババァの話は聞いたことがない」と笑っていた。そして、結婚後、この話を思い出し父や母親と話していると、これを聞いていた妻が「凄い親子!!」と呆れていた。
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2 野沢の奥都城(おくつき)のこと(「奥都城」とは墓のこと) |
野沢村北西の墓地に行きますと入って直ぐ右方向に「奥都城」と彫られた立派な墓石があります。一見、「奥都城」の城主か関係者の墓かと勘違いしそうですが、この墓は、きっと佐藤家“タヨサマ”のお墓と思います。他の墓にもあるのかは、一つ一つを確認はしていませんが殆ど無いはずです。
間違いないことは神道の斎家(さいか)で、仏教の檀家(だんか)が「○○家之墓」と表記するのと同じ意味ですと、母の葬儀を執り行って頂いた酒田の日枝神社の岡部信彦宮司に教えてもらいました。 更に、奥都城(おくつき)」のことを辞書で調べると、「奥深い所にあって、外部から遮られた境域」とあります。つまり、村落から奥深い所の「柩を置く場所」を呼んでいたようです。野沢の墓地は比較的村落に近接していますが、山の方向に死者を埋葬して「いずれ霊は山に登って神になる(ハヤマ信仰)」というハヤマ信仰(葉山信仰・麓山信仰・端山信仰などと言う)からして理想の方角だったのでしょう。
ところで、分家の丑家や本家の「松之助」は、元々は仏教(曹洞宗・開祖道元)の檀家でした。その証拠に、祖父の惣之吉、曽祖父・丑太郎、曽祖母・金代の葬儀は仏式でしたから、右の戒名が残っています。野沢の寺・安養寺は曹洞宗であり、キリシタンではないことを寺院に証明させる檀家制 度(寺請制度)の延長の慣習の中では、ごく自然な流れだったと見られます。
なお、曽祖父の丑太郎は新潟県北部の中浜の三男として明治14年生まれなのに、14歳で愛知県尾張旭市霞ケ丘町292の「天理教名古屋大教会」近藤嘉七初代会長(新潟出身)の養子になっているほどです。親から言われて仕方なく養子になったと思われますが、それでも当然ながら、少年・丑太郎は天理教の信者として本格的な修行に入り、教義など色々と学んだはずです。
幕末から明治期には、新興宗教の天理教は飛ぶ鳥を落とす勢いで、信者数が延びていた時代の話しです。しかし、名古屋に養子になって約7年後、事情は不明なるも明治34年の21歳で郷里に戻ると直ぐにも遊佐郷に入っています。そして、遊佐郷では天理教信者としての動きは全く見せなかったのに、丑太郎の妻・金代が38歳ころ、関節リウマチに罹ると、再び信仰の動きを見せ始めたのでした。それは、祖母・鉄江が15歳ころであり、「親子で信者になった」と、金代の妹で下当の「ブンジロ」に嫁いだ「継」や岩野に嫁いだ「清恵」らからの証言を惣作は記録しています。
医学が未発達の明治から大正期、不治の病に見えたリウマチ治療を信仰に頼ったことは理解できる話しです。それに天理教では「人間の身体は神様からの借りもの。心一つが我がのもの」」と教えており、病気の原因で「心のほこり、身に障り付く」と教えられたことを、38歳ころ丑太郎は思い出したはずです。いずれにしても我が家が“神道”に改宗したのは約40年前です。 |
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3 「惣作」の「惣」は名前には重いものがあります。 |
父・惣作の「惣」の文字は、私には、何度も目に留まる文字ですが、この漢字を名前を持つ人は、居そうで本当は少ないと思っています。私も、これまで仕事で様々の名簿や名前を確認することがありましたが、実際は少ないはずです。
ところが、我が家や本家の家系図を調べますと、「惣作」の他に、祖父は「惣之吉」、高祖父は「惣之助」、「惣市郎」「惣太郎」「惣治郎」等々と多く居られます。この「惣」の文字は、「総」とほぼ同じような意味があって、昔から「惣代」は本家筋の家長を言い、後継ぎの息子を「惣領」と呼んでいます。つまり、大農家の本家・松之助(マジスケ)や大庄屋で惣代名主(そうだいみょうしゅ)の下当の士族・佐藤惣左エ門(そんぜん)のような、歴史と存在感がある家には似合うと思うのですが、分家の身で使うのは無理があると思っています。
父・惣作は、小生の子供たちにも「この“惣”の文字を使って欲しい」と語るときがありましたが、「苗字の渋谷と“惣”の文字は姓名判断では画数に合わない」と、屁理屈を付けて断っています。それに、それを期待するなら、小生にナゼ「惣」の文字を使わなかったのかです。
もし使われていたなら、それに相応しい生き方や結果を出したかも知れません。 しかし、一度は子供の名には実際は検討していまして、惣一、惣太、惣治、惣子(ふさこ、のぶこ)、惣美(ふさみ)等々を考えたのですが、余りにも限定的で広がりが無く文字の扱いが難しかったのです。
それに、この字は“国字(和製漢字)”であり、地名や魚、外来語には多いのですが人名には向いてないと思っています。漢字は主に中国から伝来ですが、“国字”は日本で新しく作られた和製漢字なので訓読み(大和言葉、日本語の固有語)が殆どです。
何も“惣”の文字を悪いと言っているのでなく、使うのが難しいと思っているだけです。 |
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4 母は「女子挺身隊」だった |
惣作の連れ相いである母・百千(おせん)は、本楯村役場(昭和29年に酒田市編入)で書記として勤務していた池田忠吉と、遊佐町蕨岡「杉勇酒造」の佐藤家から嫁いだ寅代の長女として、昭和2年11月26日、 酒田市本楯・草田で誕生しています。
昭和16年12月8日の大東亜戦争勃発当時は14歳になったばかりです。
当時、若手男子の多くは兵隊にとられ、国内の労働力が極端に不足していました。これに代わる労働力の補完要員として、昭和18(1943)年、国家総動員法に基づく制度で、女子挺身隊の組織化が進められ、14歳〜25歳迄の未婚女子数万人に「女子挺身隊勤労令」が発せられます。
尋常小学校を卒業したばかりの母は、直ぐにも女子挺身隊、正式には「女子勤労挺身隊」に選ばれ、川崎市の南武線「日本電気駅(現・向河原駅)」近くの、当時、主要な軍需工場の一つとされた「日本電気(現・NEC)」の玉川向工場に二年近く召集されています。「酒田辺りからは5〜6人位いた」「仕事が終わると三時間位女学校の夜学に通った」などと話していました。
徴用の選考は市町村が主導したそうですから、父親の池田忠 吉が本楯村役場で書記として勤務中とあっては、「大切な娘であっても、お国の為には仕方なし・・・」と必然的に選ばれたと推測されます。川崎の日本電気では毎日、何の製品の何処の部品か分からないところの半田付けが主な仕事だったそうです。
「料理や洗濯はへただが、半田付けだけはプロだ」が口癖でした。
昭和20年6月頃になると、川崎の工場も空襲が激しくなり、岐阜県の工場に移動しますが正確な位置は分らないそうです。後で調べると、岐阜県岐阜市には、大きな日本電気の会社がありますから、ここで数か月働き終戦を迎えたと思います。
岐阜県で終戦を迎えると、ようやく本楯・草田の実家もどって、嫁ぐ準備に入っています。
母は「おらだは大変な時期に生まれ合わせたものだ。それでも全国から同じ年頃が集まって来て、いろいろ思い出深かった。」と当時を回想していました。
また、「戦争がもう少し長引いていたら“従軍看護婦”を希望していた。」と語る事もありました。きっと、同世代の女子挺身隊の皆さんと、そんなことを話し合っていたのでしょう。
そして、「もし、そうなっていたら、おめだは生まれていなかったかも」と続けて語り、当時、二十歳前の娘たちの覚悟の程を知ることが出来ました。
なお、女子挺身隊のことは、『日本電気ものがたり』日本電気、1980年版や、『続日本電気ものがたり』日本電気、1981年版でも紹介されています。 |
下の写真は、百千7歳 二段目右から二人目(本楯尋常小学校)クリックで拡大します |
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日本電気の女子挺身隊のみなさん(母・百千は右上、16か17歳) |
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「草田」は右上で城の輪柵の南西です。左上は「古川」村で野沢から嫁いだ佐藤家があると聞きましたが、野沢のどこの家なのか不明です。この辺りは、子供時代の夏休みには、毎年のように10日くらい連続で泊りに出かけ遊び回った村なので、比較的詳しい場所です。ご先祖の墓地は左手中央であり、帰省すれば必ず墓参りに立ち寄っています。城の輪柵は奈良時代に造営された「出羽国」の国府所在地の有力な候補です。、 |
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「草田」は左上、右上は木の内(きのち)や豊原です。豊原の後藤丹蔵家の婿「善治」は、一農民ながら明治26年〜昭和9年迄、42年間、毎日日記を書き残した人で善治日誌として発表しています。
この話は中学生当時、社会科の梅津先生が「日記を一生書けば、それは地域の宝になる」と教えられたものです。この後藤家は妻の叔母の嫁ぎ先であり、10数年後に、直接、本物に触れるとは思ってもいなかった話です。 |
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5 岩野のババチャが熊と戦った話 (熊が嫌がる武器?) |
近年特に、熊が人里に降りてくる話を聞くことが多いようです。この理由はい ろいろあると思いますが、根本的には、熊の住むブナ林の領域を人間が狭くし、熊が食べ物を十分に得ることが出来なくなったからだといわれています。熊も生きるためには、仕方なく麓の人里に餌を求めにやってくるのでしょう。
とっておきの熊の撃退方法?を思い出しました。
この話は、熊に人が襲われたというニュースで、遠い昔の祖母達の会話を思い出しているのです。その会話は、たわいのない年寄り同士の世間話ですが、あまりにも繰り返し聞かされて、その度に腹を抱えて笑わせられた話です。
話せば何てことありませんが、曽祖母・金代の一番下の妹で、祖母・鉄江の叔母に当たる清恵バアさんは、鳥海山の麓村で白井新田の「岩野」に嫁いだ人ですが、屋敷の北側は全てが鳥海山といってもいい環境でした。 (孫娘の婿は、数年前まで遊佐町町議会議員議長を務めた岩野の
堀満弥です。)
祖母の鉄江から見て、叔母に当たる清恵婆さんは、当時75歳過ぎの小柄な老婆でした。
秋深い10月ころ、岩野の屋敷で落ち葉の庭掃除をしていると、突然、熊が庭に現れた という。
70数年生きていたが初めての体験で、それはそれは腰を抜かすほど驚いたそうだが、その時、たまたま持っていた掃除用具(武器?)が幸いしたという話です。 それは、庭の掃除に偶然持っていた「熊手」(方言で「こまざれ」)だったのです。
この「熊手」(こまざれ)を無意識 のうちに振りかざしたところ、熊は逃げて行ったという単純な話です。当時の田舎なら、「熊手」は何処の家にもある普通の掃除用具ですが、田舎では「こまざれ」だが、正式名称は熊手であり、その形状は大きな熊の手でした。熊も自分より大きい手を振りかざされたら、きっと驚いたであろうと思います。ありそうな話で、みんな納得して聞いていたが、なんども喋るうちに話に尾ひれがついて、面白さもアップしていたのです。
ついには、熊手を振りかざして追いかけたとか、向かって来たので熊手で戦ったような話になっていたのです。こどもの私は事実と思って聞いていたのですが、これが最近なら、新聞、テレビの取材も来たことでしょう。田舎では、テレビも無い時代に、こんなたわいのない話で老婆達は盛り上がっていたのだが、これが最近の熊に通用するかは責任を持てません。間違っても、他の人に「熊手(方言でこまざれ)は熊退治に有効だ」などと語っては、本当に笑われてしまいます。 |
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6 丑太郎やマジスケの惣之助、ウゲジのジチャ達は白井新田開発に従事した |
「白井新田地区」は、江戸時代に庄内藩の郡代「白井矢太夫(1753〜1812」の発案と指導により、藩の一大事業の新田開発が始まります。そして、岩野集落や藤井集落、金俣集落など が開墾された地域です。
我が家の曽祖父・丑太郎も明治後期に新潟県北端の中浜から北前船でやって来て、当初は野沢の卯吉(ウゲジ)に居候しながら新田開発に携わっています。ジチャ同士は晩年まで仲良かったのですが、どのように知り合ったのかは不明です。
※右は昭和32年丑太郎の死去により埋葬時の様子。左端がウゲジのジチャ。中央が惣作、右端が小1の小生。頭の形は今も変わらないと家族に笑われています。
「墓地、埋葬等に関する法律」は昭和23年成立)
また、ウゲジ(卯吉)の家は野沢で最も古い家柄でマジスケ(松之助)の本家でもあり、マジスケの長女・金代も出入りしていたのか、それとも逆に、丑太郎がマジスケに頻繁に出かけて知り合ったのか不明ながら、結婚する運びになります。
そして、丑太郎の義父となった「惣之助」は下当のソンゼンからの婿入りながら、当時、遊佐村の村会議員として38年間もその職にあり、白井新田開発の図面作成などに名前を残しており、新田開発の責任者の一人だったことが推測されています。村会議員のマジスケの「惣之助」は金代の父ですから、私から見て高祖父となります。そして「惣之助」は、丑太郎と金代の結婚を許し、同じ家に約3年間も同居し、その後12年間は同じ敷地の離れで生活しているほどですから、丑太郎も単なる土方人足では無かったはずです。
ところで「白井新田」の名称は庄内藩の「白井矢太夫(やだゆう)」の功績を讃 えての名称です。
寛政五年(1793)、白井矢太夫は「郡代」の役を任じられています。庄内藩では「郡代」は、家老に次ぐ高い地位で農政を総括する役職とされ、また藩の経済を司る重要な任務もありました。白井矢太夫は名君と言われた7代藩主・酒井忠徳(1755〜1812)の信任も篤く、白井新田開発などで石高が大幅に向上したことで、藩の財政再建に成功し、庄内藩の富裕ぶりは「神田大黒」(江戸上屋敷の場所が神田橋近くにあった)
この庄内藩の富裕ぶりを妬ましく思って起きたのが天保11年(1840)の「三方国替え事件」です。具体的には「川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が越後長岡へ、越後長岡藩が川越藩へ移る」というものでした。この国替え事件は、「殿様(酒井公)に庄内にいて欲しい」との理由で、百姓一揆が組織されたもので、この一揆が幕府に聞き入れられた日本史上、前代未聞のことでした。 |
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7 高瀬村村長と遊佐村村会議員が作ったマジスケエモジ「丑家」 |
「白井新田地区」は、江戸時代に庄内藩の郡代「白井矢太夫(1753〜1812」の発案と指導により、藩の一大事業の新田開発が始まります。そして、岩野集落や藤井集落 、金俣集落などが開墾された地域です。
我が家の曽祖父・丑太郎も明治後期に新潟県北端の中浜から出稼ぎに来て、当初は野沢の卯吉(ウゲジ)に居候しながら新田開発に携わっています。ジチャ同士は晩年まで仲良かったのですが、どのように知り合ったのかは不明です。
また、ウゲジ(卯吉)の家は野沢で最も古い家柄でマジスケ(松之助)の本家でもあり、マジスケの長女・金代も出入りしていたのか、それとも逆に、丑太郎がマジスケに頻繁に出かけて知り合ったのか不明ながら、結婚する運びになります。そして、丑太郎の義父となった「惣之助(嘉永5 (1852年).3.5〜昭和13年、92歳没)」は下当の士族「ソンゼン」からの婿入りながら、当時、遊佐村の村会議員として33年間つとめ白井新田開発の図面作成などに名前を残しており、新田開発の責任者の一人だったことが推測されます。また、遊佐史下巻6.2頁には「即位記念の学校林増設案」に野沢字長坂の原野5町歩払下願に名を残しています。
遊佐町野沢字長坂は現在の「藤井農村公園」辺りのようです。
村会議員の「惣之助」は、曾祖母・金代の父ですから、私から見て高祖父となります。そして「惣之助」は、丑太郎と金代の結婚を許し、同じ家に約3年間も同居し、その後12年間は同じ敷地の離れで生活しているほどですから、丑太郎も単なる土方人足では無かったはずです。
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惣之吉、鉄江夫婦の子供達。2025年1月、京子叔母が死去され全員鬼籍に入っています。
下段の写真は惣作が出征直前のものです。 |
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晩年の鉄江と惣作ら子供たちです。 |
上の写真は概ね80歳以上の野沢の方なら、ご存じの方もおられると思います。 |
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8 「こもじ布団」の思い出 |
「こもじ布団」とは「ワラ布団」のことで、稲わらの横の柔らかいところをムシって布団のワタ代わりにしたものです。この「こもじ布団」を作っている場面は、鉄江ババチャと京子オバさんがよく一緒になって作っていた記憶があります。「こもじ布団」を作っている最中に、弟や妹たちも、飛び込んだり寝転んだりして遊んでは、「邪魔だ、あっちさえてれ!」とよく叱られていたものでした。
この「こもじ布団」のこもじが新しくなった日は、寝るのが楽しみなものでした。
あのパンパンに膨れた「こもじ布団」は、寝返りすると少しガサガサ音がしますが、柔らかすぎず、堅すぎず、ふわふわ感は最近のマットレスなど到底及ばないと寝具と思っています。しかも暖かさも抜群で、数日「こもじ布団」で寝ると、その布団は自分の体形に合った窪みができて、まるで自分専用の巣に入ったような感じがして、本当に熟睡、安眠できたものでした。
弟や妹が“寝小便”して、その辺りが臭くなっても、その臭いワラだけを取り出して、“肥え塚”に捨てて、新しくワラを入れ替えていたものでした。
自分が寝小便したことは覚えていません。都合の悪いことは忘れています。
最近、富士山の近くで育った同世代の人と布団談議をしていると、やはり、子供のころは「ワラ布団」で寝たと語っており、日本中、似たように生活をしていたと実感したものです。つまり日本人は、長年、稲作と一体で生活しており、稲ワラの持つ保温力、柔らかく加工し易く、ワラ帽子、ミノ(雨衣)、防寒着、草履、わら靴、バンドリ、背負いカゴ、縄、俵、せんべし、座布団、かます(藁袋)などの藁細工をはじめ、屋根噴き、土壁、ムシロ、薪の代わり、納豆造り、肥え塚、堆肥、等々、衣食住のあらゆる場面で利用してきた歴史がありました。
「こもじ布団」に話しを戻すと、寝巻きなど無くても、パンツ一つで丸裸に近い状態で一時震えながら布団に滑り込むと、いつしかポカポカになり、深い眠りに入ることができたものです。きっと、ワラには納豆菌のようなものが入っていて発酵して暖める効果があるのかも知れません。最近、“西川の布団”を購入したところ、店員が「西川の布団は世界一と思いますよ」などと奨めていましたが、そんなことを言えるようになったのも、ここ二・三十年のことでしょう。
もし「こもじ布団」を作ってくれたら、一つ欲しいものです。 |
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9 大切に育てたウサギが家族に食べられた話 |
まだ小学校に行く前の5歳ころですが、近所でウサギを飼うことが流行り出していました。「俺も欲しい」と親にねだったのか分かりませんが、父・惣作が、どこかから、二匹の白い子ウサギをもらってきました。大工の父は、なかなか立派なウサギ小屋を作ってくれたのを記憶しています。そして子供でも可愛いと思ったのでしょう。
毎日、野沢川辺りの川沿いからウサギの好きな草を採ってきたり、葉っぱものや人参など野菜の食べ残しを毎日上げて大切に育てたものでした。
一年くらい育てたころで、小学校1年になったばかりと思います。
ウサギも大分大きくなっていて、学校から帰ると、真っ直ぐ二匹のウサギを川沿いまで連れていっては、好きな草を食べさせて遊んだものです。そのうち、夕食のとき、父親が誰にともなく、「ウサギもだいぶ大きくなったのー」と語りはじめ、祖母は「そろそろ食べごろかものー」など答えています。
幼い子供には、意味不明の会話に思っていたのです。
そんなことがあって数日後、やはり学校から戻って、真っ直ぐウサギ小屋に向かうと、ウサギが二匹ともいない。
たまに逃げることもあったので、屋敷中や隣近所を探し回ると、なんと、小屋の裏の“肥えづか”の裏側の物干し竿に、二つの白い皮だけがぶら下げてあるではないか。
まさかと思って、家に入りデドゴ(台所)に行くと、肉の塊が二つまな板 に載せてあったのです。
祖母・鉄江に恐る恐る尋ねると、「今晩、喰わせてやるから・・・」と平然と告げられたのです。
それからは、気が狂ったように泣いたことを覚えているだけです。
夕食には“ウサギ鍋”になっていたが、食べることができなかったはずだったが記憶が飛んでいます。しかし、この話は後に両親が上京のおり、妻や子供達もいたところで、「こんなヒドイ事もあった。」と、文句くさく昔話を紹介したところ、妻や子も「なんと残酷な!」と驚いている。ところが、母親の百千は「おめも、泣きながら、うまそうに食べていた。」という落ちが付いてしまった。当時は、ニワトリも20匹くらい放し飼いにしていて、毎日のエサやりが自分の日課でした。
ただ、このニワトリも、頻繁に家族に食べられて蛋白源になっていたものでした。
この放し飼いの地鶏の味は、引き締まっていて美味いものだった。
それに、祖母・鉄江がニワトリを処理する場面は何度も見ていましたが、首をなたで落とすところなど、実に手慣れたものでした。 |
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10 知らずに絶滅危惧種を食べていた話し(アユカケは美味かった) |
中・高校の頃になると良く鮎を捕まえると同時に“アユカケ”も捕まえては塩焼きや空揚げで食べたものでした。上京してからはお盆の頃に帰省すると、弟たちに小遣いをやっては 捕まえて来てもらったものです。50年以上前の昔話です。
それが後に、その“アユカケ”が絶滅危惧種に指定されて、まず最初に福井県では天然記念物に指定されたと知りました。その後は、次々と、山形県の他、北海道、秋田、岩手、福島、福井県、京都府、広島の8県が準絶滅危惧種指定で、「天然記念物指定」は「福井県」だけのようです。
いつ指定されたのか正確には知りませんが、“アユカケ”には気の毒なことをしたと思っています。
アユカケは(鮎掛、学名:Cottus kazika)は、カサゴ目カジカ科に属する日本固有種の降 河性回遊魚で、大きいのは30センチにもなりますが、生態はまだまだ謎が多いそうです。山形県や東北には、淡水魚研究の専門家がいないことが研究が進まない原因のようです。
尤も、余程、暇と資金がないと研究に没頭することができないものです。もし資金力のある方がスポンサーになって研究したら、いい題材と思います。
魚には「降河性回遊魚」や「遡河性回遊魚」があります。
成長過程で、海と川を行き来できる魚のことです。
これはウィキペディアからの情報ですが「アユカケは石に化けると言われます。アユカケは岩陰に隠れるとき小石模様の体色と動かない習性で石に化けたように気配を消すことが知られています。遊泳力が低いため静止して餌の魚の寄るの待ち伏せしたり、逃げる時岩に尾を岩にぴたりと沿わせ一体化し動じない様子はしばしば観察されます。NHKの取材班は、アユカケに獲物が近寄ると呼吸を止め鰓蓋も動かさない行動を撮影しています。また、アユカケは「トゲで鮎を捕まえる」とも言われ、アユカケの鰓蓋には鋭い棘があるが、これを待ち伏せたアユ等に引っ掛けて捕らえるとされます。和名「アユカケ」の由来であるが、いまのところ実際には観察されていないそうです。案外、研究テーマになるかも知れません |
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