4  輸送船団
いよいよ、最前線の危険地帯に入ったことは、廻りの空気で読み取れた。空からは哨戒機が絶えず周辺海域を警戒し続けていた。
 一発の魚雷で幾万の戦友が死ぬかも知れない命懸けの船旅である。事実、当時の輸送船団の幾つかは、魚雷攻撃や空爆により目的地に到着することなく全滅していた。
 戦況が悪化した昭和19年代にはその頻度を増し、若い兵士達が全く戦わずして、海の藻屑と消え去ったのである。 
 その同胞は、幾十万名を数えたであろう。現在の平和時、時折起こる災害や事故による犠牲者の比ではない。一桁も二桁も違う。ここで、当時の船団の様子を説明する。

 第36師団
、通称「雪部隊は、軍属合わせて5〜6万の大兵団である。
 これをニューギニア方面の増強部隊として一度に輸送するのであるから、それはそれは大変な船団である。兵員を乗せた輸送船約十数隻、食糧に武器弾薬等を積んだ貨物船数隻に、護衛として駆逐艦一隻、掃海艇二隻を含め、ざっと数えただけで20隻を越す船団に加え、空からは、哨戒機2機に護られて、南方海域をひた走るのであるから一見勇壮たるものである。
 しかし、視線を輸送船内に戻せば、兵隊の扱いは酷いものであった。

 「第一に軍馬、第二に物資、第三に兵隊」と言われ、兵隊は物資や馬より下に扱われていたのである。当然、私が乗っている輸送船も物資を満載した上に、定員の5倍以上も乗せており、狭い船内は足の踏み場もないほど兵隊で溢れていた。畳一枚に4〜5人当たりが押し込められ、精々座るのがやっとで、船酔いする者も多く、あちらこちらで吐いている者もいて船内は異様な臭いがした。さらに、南方に向かうに連れ気温が上がり、船内は蒸し風呂のような最悪の環境になり、不衛生極まりなく、否応なしに我々の体力を消耗させていた。
 食事をするにも大小便するにも大変な苦労であったが、それでも皆「これも、お国のためだ」と割り切った。 もっとも、一兵卒が文句を言えるような時代ではなかった。
 私は、輸送船団の中央を行く「健和丸」という名の輸送船に乗っていた。
 5千トン位の当時にすれば相当大きな船で、葛目部隊長も乗船していた。
 
 船団は、魚雷による被害を最小限にするため、決して一列にはならなかった。船舳を右に左に変えて蛇行しながら進み、これが船酔いを倍加させ我々を苦しめた。駆逐艦と掃海艇は輸送船団の周囲を廻り、哨戒機一機は常に前方を警戒し、又、一機は船団上空を旋回し警戒していた。
 この一見勇壮たる船団は、南進する当時の日本軍の勢いを象徴しているようであり、まさかこの大兵団が数か月後に全滅するとは、誰も夢だに思ってもいなかった。

 この大船団も、12月21日最後の停泊地、ハルマヘラ島を出港して一夜明けた「昭和18年12月25日」早朝、辺りを見渡すと「健和丸」「辨加拉(べんがる)丸」「御月丸」の三隻になっていた。これが、ビアク島上陸の葛目連隊長率いる兵団(秘匿名「雪第三五二三部隊」)であった。

 他の船団は、ニューギニア島北部のサルミ(昭和19年5月17日米軍上陸)に向かったことは、後に知ったことである。
 師団命令は、
歩兵第222連隊は、第三六師団の指揮を離れ、第二軍直轄のビアク支隊となり、主力をもってビアク島、一部をもってヤーぺン島要地を確保し、来攻する敵を撃破すべし。師団司令部はニューギニア本島サルミにあり。」、であった。
 ウィキペディア(Wikipedia)』からの情報
 「
36師団」は1943年度に南部太行山脈(この山脈の西側が山西省・東側が山東省)の重慶・中共軍の根拠地を一掃するための作戦に2回参加していて、1回目の十八春太行作戦(4月20日〜5月22日)では、中共軍第18集団軍129師や重慶軍(国民革命軍)第24集団軍などと交戦し、俘虜15900名・帰順兵58000名を得ており、2回目の十八夏太行作戦(7月10日〜7月31日)には重慶軍第27軍と交戦し、俘虜4853名を得た。

第35師団 (日本軍) 太平洋戦線
 1944年(昭和19年)2月に南方への移動が決定され、配属砲兵隊として3月2日に満州の独立山砲兵第4連隊が師団に編合され、ハルマヘラ島の第2軍に編入された。当初には、第31軍所属として、マリアナに転用される予定であったのだが、急遽第2軍に編入され、西部ニューギニアへと進出することになった。第一次輸送部隊として歩兵第219連隊はパラオを経由して、無事に進出を終えた。しかし、第二次輸送部隊の師団主力は竹一船団としてマノクワリへ向かう途中、輸送船が米軍潜水艦の攻撃を受けてしまった。
 独立山砲兵第4連隊は壊滅し、他の部隊も多数の人員と装備を失い、残存部隊はハルマヘラ島に上陸した。その後、師団主力は海軍艦艇で輸送され、ニューギニア島西端のソロンまでは到達できた。ソロンに進出後、歩兵第220連隊を含む師団主力はソロン地区、歩兵第219連隊はヌンホル島、歩兵第221連隊はマノクワリ地区に配置された。以後各部隊は、現地で連合軍の上陸に備え防衛体制の整備に着手した。
 米軍は、同年5月27日にビアク島に上陸を開始した。
 この時師団は、歩兵第219連隊の第2大隊と歩兵第221連隊の第2大隊を基幹として、約2,500名の将兵をビアク島に増員兵力へ派遣したが、全滅した。その後、到処で師団所属の各部隊の被害が続出した。7月2日には、米軍がヌンホル島に上陸、歩兵第219連隊も激戦のすえ全滅した。7月31日には、連合軍がサンサポール地区に上陸を開始、師団主力は連合軍との戦闘に参加し、これを迎撃するが、敗退した。以後、現地で連合軍と交戦を続いた。
1945年(昭和20年)5月にソロンの本拠地に撤退して、連合軍の上陸に備え防衛体制を整えるなかで終戦を迎えた。ソロンの陸海軍部隊は米軍により孤立しながらも、サクサク(サゴヤシ澱粉)の採取などで現地自活し多くが終戦まで持ちこたえた。ー
 昭和14年2月7日編成下令。
弘前にて編成を完結し、北支那派遣軍の隷下に入る。
神戸経由で中国・河北省塘沽タンクーに上陸し、三交鎮、呉城鎮地区の警備につく。
五台作戦後、山西省西地区「ニシ」作戦、高平作戦、晋南作戦、路晋作戦、晋中作戦、中原作戦、第27軍封鎖作戦、太行作戦に参加。
南方戦線に転進するまでの5年にわたり、山西省の東南部の警備、中国の第1戦区軍および共産軍を相手に治安維持に任じた。

歩兵第222連隊の情報〜 歩兵第222連隊
昭和18年8月、南方転進の内命。
南京を経て上海に到着と同時に海上機動打撃連隊に編成改正。
11月に出帆するまでの約1ヶ月間、猛訓練を実施。
連隊は「ベンガル丸」「三ヶ月丸」のの2隻に分乗し、第36師団輸送船団と共に出港し、西部ニューギニアのビアク島へ向かう。
連隊は師団の指揮下から離れ第2軍直轄となり、兵力・装備を増強。
「ビアク支隊」となり、飛行場の建設と築城を進める。

昭和19年5月27日、連合軍は砲爆撃の1時間後の午前7時半ごろ、ビアク島東南部ボスネック付近一帯から上陸し、モクメル飛行場に向かって進撃。
敵は米第41師団、支援部隊を含めて約3万名。
ビアク支隊は歩兵第222連隊約3500名、海軍配属部隊約2120名、後方勤務隊員約3700名等の合計1万2800名。
連合軍は戦車を先頭に火炎放射器をもって進撃。
我が軍は寡兵をもって肉薄奮戦し、たびたび敵の企図をくじき後退させたが、各指揮官の戦死が相次いだ。
特に残存主力戦力だった第2大隊の消耗は支隊の士気に甚大な影響を与えた。
敵上陸26日目には食糧、弾薬なく、組織的な抵抗は不可能となり、軍旗を奉焼して玉砕することを申し合わせた。
7月2日、葛目支隊長自決。
その後、支隊に現地自活をしつつ次期攻撃を準備すべし、との軍命令が伝えられた。
各隊は食料を求めてジャングルの中に散ったが、自決者、罹病者が続出し、急速に将兵の数が減った。
終戦後の昭和20年9月上旬、ただちに生存者の捜索を始めたが、救出できた生存者は80余名だった。
 
3 北支〜南方 5 ビアク島上陸
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