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「36師団」は1943年度に南部太行山脈(この山脈の西側が山西省・東側が山東省)の重慶・中共軍の根拠地を一掃するための作戦に2回参加していて、1回目の十八春太行作戦(4月20日〜5月22日)では、中共軍第18集団軍129師や重慶軍(国民革命軍)第24集団軍などと交戦し、俘虜15900名・帰順兵58000名を得ており、2回目の十八夏太行作戦(7月10日〜7月31日)には重慶軍第27軍と交戦し、俘虜4853名を得た。
第35師団 (日本軍) 太平洋戦線
1944年(昭和19年)2月に南方への移動が決定され、配属砲兵隊として3月2日に満州の独立山砲兵第4連隊が師団に編合され、ハルマヘラ島の第2軍に編入された。当初には、第31軍所属として、マリアナに転用される予定であったのだが、急遽第2軍に編入され、西部ニューギニアへと進出することになった。第一次輸送部隊として歩兵第219連隊はパラオを経由して、無事に進出を終えた。しかし、第二次輸送部隊の師団主力は竹一船団としてマノクワリへ向かう途中、輸送船が米軍潜水艦の攻撃を受けてしまった。
独立山砲兵第4連隊は壊滅し、他の部隊も多数の人員と装備を失い、残存部隊はハルマヘラ島に上陸した。その後、師団主力は海軍艦艇で輸送され、ニューギニア島西端のソロンまでは到達できた。ソロンに進出後、歩兵第220連隊を含む師団主力はソロン地区、歩兵第219連隊はヌンホル島、歩兵第221連隊はマノクワリ地区に配置された。以後各部隊は、現地で連合軍の上陸に備え防衛体制の整備に着手した。
米軍は、同年5月27日にビアク島に上陸を開始した。
この時師団は、歩兵第219連隊の第2大隊と歩兵第221連隊の第2大隊を基幹として、約2,500名の将兵をビアク島に増員兵力へ派遣したが、全滅した。その後、到処で師団所属の各部隊の被害が続出した。7月2日には、米軍がヌンホル島に上陸、歩兵第219連隊も激戦のすえ全滅した。7月31日には、連合軍がサンサポール地区に上陸を開始、師団主力は連合軍との戦闘に参加し、これを迎撃するが、敗退した。以後、現地で連合軍と交戦を続いた。
1945年(昭和20年)5月にソロンの本拠地に撤退して、連合軍の上陸に備え防衛体制を整えるなかで終戦を迎えた。ソロンの陸海軍部隊は米軍により孤立しながらも、サクサク(サゴヤシ澱粉)の採取などで現地自活し多くが終戦まで持ちこたえた。ー
昭和14年2月7日編成下令。
弘前にて編成を完結し、北支那派遣軍の隷下に入る。
神戸経由で中国・河北省塘沽タンクーに上陸し、三交鎮、呉城鎮地区の警備につく。
五台作戦後、山西省西地区「ニシ」作戦、高平作戦、晋南作戦、路晋作戦、晋中作戦、中原作戦、第27軍封鎖作戦、太行作戦に参加。
南方戦線に転進するまでの5年にわたり、山西省の東南部の警備、中国の第1戦区軍および共産軍を相手に治安維持に任じた。
歩兵第222連隊の情報〜 歩兵第222連隊
昭和18年8月、南方転進の内命。
南京を経て上海に到着と同時に海上機動打撃連隊に編成改正。
11月に出帆するまでの約1ヶ月間、猛訓練を実施。
連隊は「ベンガル丸」「三ヶ月丸」のの2隻に分乗し、第36師団輸送船団と共に出港し、西部ニューギニアのビアク島へ向かう。
連隊は師団の指揮下から離れ第2軍直轄となり、兵力・装備を増強。
「ビアク支隊」となり、飛行場の建設と築城を進める。
昭和19年5月27日、連合軍は砲爆撃の1時間後の午前7時半ごろ、ビアク島東南部ボスネック付近一帯から上陸し、モクメル飛行場に向かって進撃。
敵は米第41師団、支援部隊を含めて約3万名。
ビアク支隊は歩兵第222連隊約3500名、海軍配属部隊約2120名、後方勤務隊員約3700名等の合計1万2800名。
連合軍は戦車を先頭に火炎放射器をもって進撃。
我が軍は寡兵をもって肉薄奮戦し、たびたび敵の企図をくじき後退させたが、各指揮官の戦死が相次いだ。
特に残存主力戦力だった第2大隊の消耗は支隊の士気に甚大な影響を与えた。
敵上陸26日目には食糧、弾薬なく、組織的な抵抗は不可能となり、軍旗を奉焼して玉砕することを申し合わせた。
7月2日、葛目支隊長自決。
その後、支隊に現地自活をしつつ次期攻撃を準備すべし、との軍命令が伝えられた。
各隊は食料を求めてジャングルの中に散ったが、自決者、罹病者が続出し、急速に将兵の数が減った。
終戦後の昭和20年9月上旬、ただちに生存者の捜索を始めたが、救出できた生存者は80余名だった。 |