我々は、夜になっても外に出ることが出来なかった。
敵は海岸沿いにテントを張り、何台も高射砲を取り付け始めたのである。 他の部隊はどうなっているのか、特に、工兵中隊の仲間はどうしているのか気になった。洞窟の中から時々外の様子を伺いながら、3日目を迎えた。体に入れるものが水だけのせいか、皆下痢に苦しんでいた。
仲間の救援は望めず、いずれ敵に発見されるか餓死すると判断した我々は、一か八か洞窟を出て、ジャングルから迂回し、工兵隊がいる洞窟に向かうことにした。
洞窟の上は崖になっており、裏手はジャングルの小高い山になっていた。我々は3人一組で、裏手のジャングル内に一旦退却し、別々に約2キロ離れた工兵中隊の本隊で合流することにした。
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同年5月29日午後は、外から聞こえて来る銃声もなく、浜辺も静かな様子なので、鎌田分隊長は、門山政明上等兵に外の様子を確認して来るように命じた。
瓦礫の山になった洞窟を走り出た門山上等兵は、直ぐ外の様子を確認して戻り「誰もいないです」と押し殺した声で応えた。直ぐ鎌田分隊長は立ち上がり、「これからは3人一組で行動する。何処に行くにも離れるな。」と繰り返し、ジャングルの山に駆け登った。それが鎌田分隊長達との最後の別れでもあった。
私と門山、瀬戸山の3人は、最後に崖をよじ登った。しかし、あとわずかで登りきろうとした時、敵兵に発見され背後から機銃掃射を受けた。瀬戸山がやられた。我々は、瀬戸山を引きずりながら、必死になって登り切った。しかし、腹部貫通でどうにもならず、自決用の手榴弾を瀬戸山に渡して門山の後に続いた。
あとは腹をすかしていたことも忘れ、懸命に逃げた。
二人は、ジャングルの中を二昼夜さまよい野戦病院にたどり着いた。米軍の攻撃に備え野戦病院を、ジャングル奥地に移したことは知っていたが、その野戦病院に偶然たどり着いたのである。私と門山は、4・5日ぶりに食べるお粥に涙した。我々は怪我と下痢で衰弱し切っており、その日は野戦病院の世話になることになった。
この頃、工兵中隊の本隊も全滅の危機を迎えていた。
ここで、田村洋三著「玉砕・ビアク島」に、工兵中隊に関し記載されている箇所をそのまま抜粋する。
「6月31日は須藤第三大隊による白昼戦が主で、午前9時に迫撃第三中隊の千田小隊と吉本小隊はマンドン付近の敵迫撃砲陣地に、同10時ごろ配属の工兵中隊(佐藤長平中隊)の沢田小隊と第三六師団海上輸送隊の辛川小隊はふただびマンドン付近に、正午ごろには亀井第十中隊の宮坂小隊がイブディ付近にそれぞれ攻撃を加え相当の戦果を挙げた。」
と唯一工兵中隊に触れている。
部隊本部の命令受領者であった松田軍曹、高橋澄上等兵が、部隊本部のある「西洞窟」に行ったが共に戦死したとの報を知り、私は野戦病院から工兵中隊本部に向かった。工兵中隊本部に、ジャングルを抜けてようやく辿り着き、上官に簡単にこれまでの状況を説明した。そして、敵上陸から5日目にして、工兵中隊で生存が確認出来た者は百名足らずであったことを知った。
約2百30名の工兵中隊は、半数以下となっていたのである。
本隊と合流し半時も経たないうち、「中隊長から戦死した松田軍曹、高橋澄上等兵に代わって、渋谷兵長と大屋軍曹は、中隊付命令受領者として申告するように」と下命された。
さっそく連隊本部のある西洞窟に、中隊付命令受領者として申告に向かった。
この頃から約一か月間、私は中隊付命令受領者として、「西洞窟」や中隊本部がある洞窟で殆どを過ごすことなる。又、衛生兵を兼ねていた私は、負傷兵の看護を担当していたが、十分な医療設備や医薬品がある訳でなく、目の前で次々に苦しみながら死んでいく仲間を何人も看取ることになった。
屍は埋葬する余裕も体力も無く、ただ洞窟から引きずり運び出し、その辺りに野晒しにした状態であった。工兵中隊がほぼ壊滅したのは19年6月末、敵がキャンプ地としていたマンドン攻撃であった。洞窟に運び込まれた負傷兵から、工兵中隊・荒井平八郎小隊長の戦死の状況を伝えられた。
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ビアク島最大の西洞窟、私は約1ヶ月間ここで過ごした |
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