著者 渋谷惣作
大正11年7月23日生
昭和17年12月1日
初年兵として
盛岡工兵隊入隊

36師団「雪部隊」第222連隊所属

入隊と同時に北支に派遣され、更に昭和18年12月25日ビアク島上陸
陸軍・兵長「工兵中隊兼衛生兵」
昭和21年3月4日帰還

平成17年(2005年)8月18日没
葛目直幸連隊長
明23・10・23〜昭19・7・2
高知県出身、陸士25期
大正2年12月
任歩兵少尉・近衛歩兵第4聯隊附
大正6年8月 任歩兵中尉
昭和14年8月 丸亀連隊区司令官
昭和16年4月高松連隊区司令官
昭和16年7月歩第222連隊長
昭和19年7月戦死(ビアク島にて) 
中将「二階級特進」
1 まえがき
 日本軍がニューギニア島を、南太平洋戦域の重要拠点にすべく進攻を開始したのは、1942年(昭和17年)8月ガダルカナル島が陥落する数か月前の、昭和17年3月頃であった。
 
 当時、この辺りの島々には、オランダやイギリスの部隊が僅かに駐屯していましたが、日本軍は時の勢いに乗じ、戦闘を交えることなく、これら駐屯部隊をハエを追い払うように、次々と占領していった。

 更に、マノクワリには二ユーギニア軍政府が設置され、民間産業団体による資源調査隊も送り込まれていた。
 日本国は、この島を南太平洋戦線の重要拠点にすべく計画していたのである。

 私が属する、当時、装備・兵の士気ともに、日本軍最強といわれた陸軍歩兵第222連秘匿名・雪3523連隊長・葛目直幸大佐3,815名を中心とする約1万余名が、ニューギニア島北部のチェンドラワシ湾に浮かぶ
ビアク島に増援部隊として派遣されたのは、昭和18年12月25日のことであった。
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 ビアク島の守備は、我々、歩兵第222連隊秘匿名・雪3523連隊長・葛目直幸大佐に加えて、海軍第28根拠地隊約2千名(司令官・千田貞敏)などの、計約1万2千800名で、万全の備えと大本営は判断していた。

 だが、連合軍も黙ってはいなかった。
 昭和18年2月、ソロモン地域のガダルカナル島を反抗の拠点とした米軍は、まず、ブーゲンビル、ラバウルを陥落させ、昭和18年9月には、ニューギニア島フィンシュハーフィンに米軍が上陸、昭和19年3月にはポーランジアに、更に昭和19年4月にはアイタペに上陸を許し、徐々にビアク島に迫って来たのであった。
 そして、昭和19年4月17日から、ポーランディアを拠点にしてビアク島に連日空爆を行った後、同年5月27日、米軍第41歩兵師団等が、数万名の兵力でビアク島上陸を敢行したのである。
 我々守備隊も、夜襲と突撃を繰り返し、米軍を未曾有の苦戦に陥れる健闘をしたが、米軍をはじめとする連合軍の後から後から追加支援される圧倒的物量戦の前に、全滅(88名生存、生存率0.6パーセント)したのである。

 なお、葛目直幸連隊長は昭和19年7月2日自決、奇跡的に生き残っている我々も、殆どが負傷又は食糧不足で衰弱しており、望郷の念は強くとも撤退する術も無く、ただ情ない姿でジャングルを逃げ惑うだけの部隊となった。
 後は生恥を晒すも、死ぬも運命だった。
 後に記録で知ったことであるが、我々が「第四航空軍」のために造ったビアク島の飛行場は、この方面の制空権確保上、極めて重要だったと見え、大本営も南方基地では唯一奪回を試みた島であった。これを「渾作戦」(こんさくせん)と称し、風雲迫るビアク島守備隊の救援のため、増援部隊の送り込み作戦が何度か敢行されていた。
 なお、この作戦は、この後に続く
「あ号作戦」(マリアナ沖海戦と連動しており、国家の存亡をかけた極めて重要な作戦であった。

 第一次・第二次作戦は失敗、そして第三次作戦は、当時の最強戦艦「大和「武蔵」が率いる大艦隊による増援部隊の輸送作戦だった。しかし、作戦敢行中、連合軍がサイパンに上陸したとの報に、大本営はサイパン重視と判断、全艦隊をUターンさせサイパン救援を命じたのであった。

 つまりビアク島、いや我々守備隊は祖国に見放なされ、あとは悲壮な絶望的状況下で、死を待つだけの部隊となったのである。
出征当時の著者

 私は絶海の孤島で、極限状態に置かれた人間の行動と心理、特に生への執着、望郷の思い等を恥を忍んで赤裸々に述べるとともに、戦友・上官らの最期の様子等を、記憶の限りここに記述しておく。

 戦後60年を経た今日、命長らえている者の使命と思いつつ・・・・・・・・・・


「渾作戦」とは
「渾作戦」とは、

 日本艦隊の決戦となった「あ号作戦」(マリアナ沖海戦、19.6.19)の前段で立てられた、「ビアク島を奪還するという」重要な作戦である。
 ニューギニア方面から、島づたいに進攻してきたマッカーサー元帥の先陣が、我々守備隊が「ビアク島」に飛行場建設を完了したところに上陸を開始してきた。ビアク島の飛行場がどちらの手にあるかは、その南方地域の制空権確保上、極めて重要な問題であった。
 
 昭和19年5月27日米軍のビアク島上陸後も、我々「ビアク島守備隊」は頑張り続けていたのであるが、そこで大本営は、「ビアク島奪還作戦」を計画した。
 1回、2回はあえなく失敗、そして3度目は、当時の最強戦艦「大和」率いる大艦隊による奪還作戦であったが、ビアク島を目前にして、サイパンに米軍来襲との報に、サイパン重視と判断した大本営は、全艦をサイパンにUターンさせ、実現しなかった。

 この幻の作戦が
「渾作戦」(こんさくせん)と呼ばれたのである。
 この作戦は、我々兵士にも直ぐ伝えられ、「必ず救援に来る、それまで頑張れ」と幾度も指示されていた。「ビアク島」基地の重要性は、派遣された当時から聞かされていたが、我々一兵卒も戦況の全体像は把握していなくとも、「この島は南方の重要拠点だ。必ず救援に来る。それまで頑張れ」という上官の言葉を信じ続け、戦っていたのであり、「救援に来なかった」ことへの、将兵の落胆はあまりにも大きかったのである。


  「渾作戦」は、なかなか来ない作戦から、我々兵士には「来ん作戦」と揶揄された。