野沢の話題 2
1 鳥海山・飛島ジオパーク」は大切にして欲しい。~山の損壊には必ず山の神の祟りがあります
2 天保の義民と野沢村(藤沢周平の義民が駆けるを読んで) ~遊佐町民の心意気が伝わります
3 橇木山(そりぎやま)のこと ~農村の暮らしが大きく変化する直前の話です。
4 江戸の新徴組(しんちょうぐみ)と京都の新撰組のこと ~是非、知って欲しいことです。
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1 「鳥海山・飛島ジオパーク」は大切にして欲しい
  ジオパーク とは、「ジオ(地球・大地)」と「パーク(公園)」を掛け合わせた言葉で、「大地の公園」を意味するそうです。ネットには「世界ジオパークは、地層、岩石、地形、火山、断層など、地質学的な遺産を保護し、研究に活用するとともに、自然と人間とのかかわりを理解する場所として整備し、科学教育や防災教育の場とするほか、新たな観光資源として地域の振興に生かすことを目的とした事業。」とあり、それなりに権威付けされています。
 「鳥海山・飛島」がジオパークに加盟したのは2016年です。
 この保護地域では、樹木や植物、岩石や化石や鉱物などの採掘を含めて、無秩序な開発事業は制限されるとあります。そして、これに違反した行為にはジオパーク加盟の取り消しもあるそうです。
 この厳しい制限の中で、鳥海山麓の伏流水が吹き出す「胴腹の滝」の直ぐ上の臂曲(ひじまがり)地区で、大規模な砕石を計画している業者があると報じられています。この場所は、前述の「鳥海山・飛島ジオパーク」の地域内であり、それも、伏流水が湧き出る上流の地域ですから大変です。この採掘業者は「地下水に影響ない」として、住民に説明会を開いたとありますが、遊佐町の町民感情としては、とても許容される行為ではありません。また、鳥海山を守護神として、「鳥海山大物忌神社」は、出羽國一之宮で、山頂の「御本社」、山麓の「蕨岡口ノ宮」「吹浦口ノ宮」の3社が知られています。
 きっと、町民全員が我が身を傷つけられる思いをしたと同時に山の神も怒っているハズです。
 右上の画像にあるように、この業者は過去にもブナ林を伐採し岩石を採掘しており、町では最高裁まで争い勝訴し採掘を中止させていますから、簡単には引き下がらないと思っています。もちろん、野沢部落や白井新田辺りも採掘現場の下方に位置しており広範囲で田畑を耕す地域ですから、それに遊佐町全体では、湧水や自噴井戸が300か所以上もあり、長い目でみれば何らかの影響を受けること確実です。60年以上も昔ですが、祖母が鳥海山麓から道路工事のハッパの音が聞こえると「山をボッコス気だが-バジあだっぞ‼」と怒っていたことを思い出しています。それに鳥海山は、昭和38年に国定公園は指定され県が管理している事も忘れてはなりません。

  〒999-8303 山形県飽海郡遊佐町野沢上ク子添 - Google マップ
下段の画像は、遊佐町の主要施策_R7_表紙表4_HP  
 
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 西山の砂丘のクロマツの植林は、酒田の本間家が注目されますが、遊佐地域でも、佐藤藤蔵(1718~1797)は主に藤崎地区、菅里橋近くの曽根原六蔵(1742-1810)は主に菅里地区に、家財を投げ打ち、荒れ果てた砂丘に植林し、現在のような緑豊かな砂丘へと変貌させた人達です。
  「遊佐四大祭」は遊佐町の歴史の中で、特に活躍した4人の人達に感謝する町が主催する祭で、「戴邦碑(たいほうひ)」「佐藤政養祭」、「佐藤藤蔵祭(植林功労者)」、「諏訪部権三郎祭」があります。

 下段の画像は、遊佐町の主要施策_R7_表紙表4_HP  からです。
 
 
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2 天保の義民と野沢村(藤沢周平の「義民が駆ける」を読んで) 
 遊佐町の漆曽根辺りから、月光川に沿って下藤崎に向かう途中の江地村に「玉龍寺」という寺があります。この寺の住職・文隣和尚をはじめ、隣村宮田の石垣茂左衛門(モンゼェン)家七代目当主・兵藏、更に遊佐郷の名も無き農民達が、「天保11年」頃、突然、歴史の舞台に登場します。それは、1840年「天保11年」の庄内藩酒井侯の国替え事件に端を発しています。
 「三方国替え事件」は、長岡藩主牧野備前守を川越へ、武蔵野国川越(埼玉県)藩主松平大和守を出羽国庄内へ、庄内藩主・酒井忠器を越後国長岡へと、領地替えの命を幕府が下したから大変です。
 転封理由の真偽は明らかではありませんが、時の11代将軍・徳川家斉(いえなり)と大奥、老中水野忠邦の私情が絡んだ、継嗣騒動を原因とするのが通説です。財政が貧窮していた川越藩が、将軍家から養子に迎えるにあたり、富裕であった庄内への転封を交換条件に示したと言われています。
 当時、庄内藩は石高13万8千石でしたが、実際の収入は20万石以上あったと言われています。江戸屋敷が、江戸城北西の神田橋近くだったので「神田大黒」の異名があるほど富裕な藩でした。しかし、この国替えによって半減以下に損するのは庄内藩だけであり、あまりにも理不尽なことだったのです。
 それに当時、庄内藩主と藩民は極めて良好な関係にあったのでしょう。
 この国替えを阻止するため江戸に登ったのは、飽海地区(現在の酒田市・遊佐町・八幡町近辺)を中心とした農民たちでした。蓑・笠姿の彼らは、一見して、田舎から出てきた農民とわかり、「庄内の百姓は殿様思いだなあー」と、江戸や近隣諸国から同情をかったそうです。当時、このような陳情は打ち首の極刑でしたから、皆さん覚悟の上の陳情だったのです。外見的には柔和な遊佐の人達ですが、この簡単には引き下がらない反骨精神は、今も残っていると見ています。
 この国替えの反対運動の影には、玉龍寺(江地)の文隣和尚や、升川出身の佐藤藤佐(とうすけ)でした。佐藤藤佐は江戸で公事師(今の弁護士のような仕事)をしていた方でした。また、農民らを資金面で支えたのが、酒田の豪商・本間光暉だったと言われています。 
 そして、ここ野沢の村人の間でも、当然大きな話題になったのでしょう。
 「おれだは、なにへぇば酒井の殿様よろこぶがの・・・」などと、ことあるごとに寄り合いを重ねたことでしょう。また、村の代表者は、足げく江地の法華宗・玉龍寺に通い、文隣和尚らと協議を重ね、そして、決定したのは若年寄り増山弾正少弼や秋田藩への陳情だったのでした。
 当時、野沢村を代表する役(庄屋なのか肝煎かは不明?)にあった、善九郎(ゼンクロ)善作(ゼンサグ)が陳情に向かうことになり、善作は天保12年3月21日、若年寄増山弾正少弼に、善九郎(ゼンクロ)は同6月25日秋田藩佐竹侯への陳情に参加しています。
 その目的は、「万が一、幕府が近隣の藩に庄内藩取り鎮めを命じた場合、その藩主に庄内藩の農民達の気持ちを分かってもらう」ことであったと言われています。野沢の善九郎(ゼンクロ)や宮田の石垣平蔵(モンゼェン)ら27名は、秋田藩久保田城下に向かい、同25日に佐竹侯に嘆願したと伝えられています。
 当時、このような陳情は打ち首の極刑でしたから、覚悟の旅たちでした。
 これらのことは、鶴岡出身の作家・藤沢周平が、小説「義民が駆ける」の「領内騒然」の項で紹介していることですが、私が知る限りでは、遊佐郷や野沢村の農民が、歴史の舞台に登場したのは、これが唯一のできごとではないかと思われます。
 小説の中には、近郊の村々に今も残る家号がたくさん出てきます。
 読まれたらきっと、「こごらの先祖も頑張って来たの。」と感想を持たれることでしょう。
 これらの出来事を絶妙に表現して頂いた、庄内が生んだ偉大な作家・藤沢周平には感謝です。
 
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3 橇木山(そりぎやま)のこと 
 厳冬の鳥海山が落ち着きを見せ、春の息吹きが里に伝わる2月上旬頃になると、山から薪(たぎもん)にするナラ、クヌギなどの雑木を切り出し、村まで雪橇で運ぶ、「橇木山(そりぎやま)」(「春木山」と呼ぶ地域もあるという)が始まります。
 前年の稲刈りも終わって、且つ雪が降らないうちに指定された鳥海山の中腹の雑木を切り、家ごとに目印を付けて積み重ねて置き、それを根雪があるうちに雪橇で運び出し、その年に使う薪にしていたのでした。 
  野沢村は、鳥海山の傾斜が始まる麓にあり、地の利からも雪橇を使っての運搬に便利な位置にあります。子供の目から見て、雪橇に雑木を満載し、山からすべり降りて来る大人の姿は、力強く勇壮であり、早く自分も、あのようになりたいと思いつつ成長したものです。
 はじめて連れて行ってもらったのは、身長がようやく母親と同じ程度の1m50㎝を越えたくらいに伸びた小学校5年生になった冬のときでした。
 子供の体力に見合った、小振りの橇を与えられ、塩漬の青菜っ葉で丸めた大きな握り飯と、大根漬(デゴヅゲ)を腰に巻き、我が家に一個しかなかった白金カイロを懐に入れ、朝も暗いうちに出発した。山の中腹まで約4時間もかけて登るのだが、雪深い山中の登りは積み荷のない橇でも大変な労働であった。
 白井新田の村を過ぎると、幻想的な白銀一色の眩しい世界が広がり、感動したものです。
 行きかう村人から、「あんちゃ頑張れ」の声に元気づけられながら登ったものでした。
 目的地に着いて握り飯を食べ終わると、休む暇もなく雪の中から2メートル程に切り揃えた雑木を掘り起こした。親から 「山の天気が変らねうち早く積んで帰るぞ」と叱咤されながら、橇に腰高位まで雑木を積み重ねる作業も大変なことだった。橇に、雑木を固定させるには積み方に工夫が必要だったが、どうしても乱雑になり、氷ついた麻ロープで固定するには相当の力が必要だった。
 「ジャッキ」と呼ぶ、ロープを締め上げる赤色ペンキで塗られた締め具を持っている家もあったが、見ていると雑木を簡単に、橇にシッカリと固定することができるのが羨ましかった。更に大切なのは、橇の両側後ろに1メートル程の長さにした、小枝付きの雑木を集めて、ほうき程度に束にして取り付け、両足でブレーキとハンドルに使うことだった。
 この雑木の束にまたがるように足を乗せ、右に曲がる時は右足に、左方向は左足に重心を移動すると、けっこう橇をコントロールすることが出来た。
 この雑木の束も、家に着くころには、雪や砂利との摩擦ですっかり擦り切れて細くなり、役に立たない状態になっていた。
 鳥海山中腹からは、晴れていれば眺めが良く、庄内平野や日本海も一望出来たが、吹雪に遭うと数メートル先しか見えず、崖から橇ごと転落する事故も現実にあった。
 親からは「落ちそうになったら、橇は捨てて飛び降りろ」等と、声を掛けられながら下るのだが、内心はスリルを覚え面白かった。人里がある白井新田あたりまで来ると、道なりが安定した。
 順調に下れば、帰りは1時間もかからなかった。
 昼ころには家に戻り、温かい昼ご飯を食べると、安堵と満足感が広がった。
 村人の中には、一日に二度も行く人もいたが、さすがに子供にはその元気は無かった。
 運んで来た雑木は、薪小屋の前に積んでおき、暇を見ては約30センチ大に切り揃え、太過ぎるものはまさかりで適当に割るのである。これは、小学校から戻ると与えられた当て仕事(ノルマ)であったが、マサカリを正確に振り下ろすことは、相当の運動量であり自然と腕力が強くなっていたものだった。
 この伝統も、昭和37~8年頃には突然のように途絶えた。
 理由は、村のほとんどの家で、燃料にプロパンガスが使われるようになり、囲炉裏をはじめ風呂焚きやかまどに使う薪(たぎもん)は、たいして、いらなくなったのでした。
 そして野沢村にも、この頃から徐々に水道、電話も引かれ、台所には手元に影が出来にくい蛍光灯が灯り、居間には白黒テレビで快進撃の柏戸の相撲を観戦するなど、農家の生活様式も徐々に改善され、急速に現在に近づいて行った時代でした。
 「橇木山」(そりぎやま)は、村の生活が一変する正に直前の、最後の残像となったのでした。
 今ではやる必要もないし、見る機会もない、記憶だけの光景です。
 (
一部、薪ストーブを使う所では復活したとも聞きますが、さすがに運搬は四輪駆動車でしょう) 
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4 江戸の「新徴組(しんちょうぐみ)」と京都の新撰組のこと
 息子が千代田区飯田橋駅近くで仕事をしていた当時、幕末期に飯田橋近くに「新徴組」の屯所もあった事を教えたことがありました。「近くで勤務するのも何かの縁であろう」と、少しは郷里のことや、庄内藩の事に関心を持って欲しいと思ったのです。
 さて、幕末に京都守護職に就いた会津藩の元で活躍したのが「新撰組」で有名すぎるのに反して、殆ど知られていないのが、江戸市中取締りに就いた庄内藩の元で活躍したのが「
新徴組」(総勢169名)です。この新徴組も新選組も、山形県庄内町(旧立川町清川村)出身の清河八郎(幼名は斎藤元司、名は正明)が結成した「浪士組」が母体でした。
 清河八郎は、幕末の動乱期に尊王攘夷を唱え、志士たちを糾合し、明治維新への流れを作った人で、「幕末は清河八郎に始まり、坂本龍馬に終わる」といわれる程です。
 映画やドラマでは、策略が強すぎる人物として、印象悪く描かれるのは残念なことです。
 とにかく清川八郎のような癖のある人物がいなかったら、幕末の歴史は動かないのです。
 まず、JR中央線の飯田橋駅から徒歩数分、千代田区飯田橋1-9-7先の目白通り歩道上に「新徴組屯所跡」の碑があります。かつて、徳川四天王・庄内藩、酒井左衛門尉忠発(ただあき)17万石の江戸屋敷があった辺りです。幕末、江戸の治安が極度に悪化すると、庄内藩は江戸市中警護の主力として「
新徴組」を編成しています。「新徴組」は関東近辺で募集した「浪士組」が前身で、江戸の地理や事情に詳しく、その任に向いていたそうです。庄内藩預かりの「新徴組」の活躍を、江戸の人々は、「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」、「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」、「カタバミはウワバミより怖い」(カタバミは酒井家の家紋) などとうたわれています。会津藩預かり「新選組」が京都で活躍していた頃、「新徴組」もまた江戸で大活躍していたのです。
 また、庄内藩や新徴組の江戸市中見回りの「廻り同心」を略して「御廻(おまわ)りさん」と呼称した言葉は、現在の警察官の愛称「
お巡りさんの語源にもなっているのです。
 しかし、幕末の動乱の歴史は大きく動いていました。
 幕府と薩長との対立が激化した慶応3(1867)年12月25日、 庄内藩が「新徴組」を指揮して「薩摩藩邸を焼き討ち」が引き金になり戊辰戦争が始まっています。薩摩藩邸を焼き討ちに続いて起きる「鳥羽・伏見の戦い 」では、幕府軍は薩長連合軍に惨敗し、幕府軍が敗北すると「新徴組」は庄内藩士と共に庄内へ帰国しています。庄内藩に編入された新徴組隊士は、湯田川の旅館や民家37軒に分宿、隼人旅館を本部として部隊を編成しています。再編成された「新徴組」は 慶応4年7月20日付で編成された庄内藩兵第四大隊に付属して、秋田・矢島藩との戦い「椿台の戦い」、「秋田口の戦い」「清川口の戦い」などに従軍するなど、新政府軍相手に奮戦奮闘、全戦全勝するも、時代の大きな流れには勝てず、最終的に庄内藩と一緒に降伏することになります。
 庄内の土地には敵兵を一兵も入れない強さだったのに、降伏は無念だったことでしょう。
 明治期に入り、庄内藩士約3,000人は松ケ丘の荒れ野開墾事業に着手、新徴組も参加しています。しかし、「新徴組」は関東周辺の出身者が多く、慣れない土地での開墾生活は苦痛を強いられ、次々に庄内から脱走しています。明治14年7月当時、開墾事業に着手していた名簿には、元新徴組の隊士はわずか11名しか記載されていないという。(
※この項目は関係資料から引用しています)
 なお、新徴組隊士の中で、越後国福井藩士・中川清閑の次男で「中川一」と言う人は遊佐郷の北目に残って遊佐町の発展に貢献しています。「中川一」は、明治になると江戸から鶴岡に入り、後に遊佐郷北目に居を構え、北目村の戸長になっているのです。晩年は、吹浦の菅野に移り、自宅に道場を建て剣道や薙刀を教えていましたが、明治25年.8月11日、70歳で没すると、菅野に葬られ高橋泥舟揮毫による墓碑が残っています。長男の中川寅三は後に遊佐郷・高瀬村の村長となり、長女・は遊佐病院の「点字音譜の祖」佐藤国蔵先生の妻になっています。遊佐病院の先生方は、きっと中川一の血を引き継いでいるはずです。以前ですが、レントゲン技師に中川先生がおりましたが末裔かも知れません。
  (
前記の情報は主に遊佐病院の克也先生の著書からです。下段は菅野辺りです)
 
 
 庄内藩は江戸薩摩藩邸の焼討事件および柴橋事件(寒河江市柴橋)により新政府から敵視され、奥羽鎮撫隊の討伐対象とされた。庄内軍は仙台軍の応援を得て数的に優勢であったばかりでなく、御用商人本間家の金策でヘンリー・スネルより武器を密輸していたため、装備は東北諸藩のなかで最も充実していた。江戸時代中期の本間光丘による藩政改革以降、領民の藩主支持も強く、農兵2,031名、鶴岡商兵184名などが加わっていた。(ウィキペディアから) 
  年表等は「酒田市立資料館」からです。 
 
 
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