野沢の話題 2
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1 鳥海山・飛島ジオパーク」は大切にして欲しい。遊佐町地図
         ~山の損壊には必ず山の神の祟りがあります。
2 天保の義民と野沢村(藤沢周平の義民が駆けるを読んで)
         ~遊佐町民の心意気は今も変わらないと思っています。
3 橇木山(そりぎやま)のこと 
          ~農村の暮らしが大きく変化する直前の話です。
4 江戸の新徴組(しんちょうぐみ)と京都の新撰組のこと 
        ~警察官をお巡りさんと呼ぶ謂れです。是非、知って欲しいことです。
5 遊佐四大祭」について  
        ~戴邦碑祭(たいほうひさい)の漢字の意味がわからなかった。
6 山の幸、海の幸、野の幸、川の幸、地の幸、空の幸、風の幸、人の幸
          ~離れてはじめて気づくものです。いずれ「人の幸」も加わるのか。
7 惣作が「結婚相談員」をしていた当時の話 
         ~
惣作は49組まとめたと語っていました
8 遊佐町減少問題に対する考察 
         ~
遊佐町だけの問題ではありません。
9 「遊佐町史」上下巻を購入しています
 
         それぞれ5.000円です。町民や出身者は一冊備えて欲しいものです。
10
 遊佐町の「野沢断層」のこと1:25000活断層図
         
野沢は大きなナマズの上にある村だそうです?
1 「鳥海山・飛島ジオパーク」は大切にして欲しい
  ジオパーク とは、「ジオ(地球・大地)」と「パーク(公園)」を掛け合わせた言葉で「大地の公園」を意味するそうです。ネットには「世界ジオパークは、地層、岩石、地形、火山、断層など、地質学的な遺産を保護し、研究に活用するとともに、自然と人間とのかかわりを理解する場所として整備し、科学教育や防災教育の場とするほか、新たな観光資源として地域の振興に生かすことを目的とした事業。」とあり、それなりに権威付けされています。
 「鳥海山・飛島」がジオパークに加盟したのは2016年です。
 この保護地域では、樹木や植物、岩石や化石や鉱物などの採掘を含めて、無秩序な開発事業は制限されています。そして、これに違反した行為にはジオパーク加盟の取り消しもあるそうです。
 この厳しい制限の中で、鳥海山麓の伏流水が吹き出す「胴腹の滝」の直ぐ上の臂曲(ひじまがり)地区で、大規模な砕石を計画している業者があると報じられています。この場所は、前述の「鳥海山・飛島ジオパーク」の地域内であり、それも、遊佐町民自慢の伏流水が湧き出る上流の地域ですから大変です。この採掘業者は「地下水に影響ない」として、住民に説明会を開いたそうですが、遊佐町の町民感情を逆撫でしただけで、とても許容される行為ではありません。
 また、鳥海山を守護神として「鳥海山大物忌神社」は、出羽國一之宮で、山頂の「御本社」、山麓の「蕨岡口ノ宮」「吹浦口ノ宮」の3社が知られています。
 きっと、遊佐町民全員が我が身を傷つけられる思いをしたハズです。
 右上の画像にあるように、この業者は過去にもブナ林を伐採し岩石を採掘しており、町では最高裁まで争い勝訴し採掘を中止させていますから、簡単には引き下がらないと思っています。もちろん、野沢部落や白井新田辺りも採掘現場の下方に位置しており広範囲で田畑を耕す地域ですから、心配することは当然です。それに遊佐町全体では、湧水や自噴井戸が300か所以上もあり、長い目でみれば何らかの影響を受けること確実です。
 60年以上も昔ですが、鳥海山麓から連日道路工事のハッパの爆発音が響き渡ると、祖母が「山をボッコス気だが・・、山の神のバジあだっぞ‼」と、一人で怒っていたことを思い出しています。それに鳥海山は、昭和38年に国定公園は指定され県が管理している事も忘れてはなりません。

  〒999-8303 山形県飽海郡遊佐町野沢上ク子添 - Google マップ
2022.0301.pdf  
下段の画像は、遊佐町の主要施策_R7_表紙表4_HP  
 
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2 天保の義民と野沢村(藤沢周平の「義民が駆ける」を読んで) 
 遊佐町の漆曽根辺りから、月光川に沿って下藤崎に向かう途中の江地村に「玉龍寺」という寺があります。この寺の住職・文隣和尚をはじめ、隣村宮田の石垣茂左衛門(モンゼェン)家の七代目当主・兵藏、更に遊佐郷の名も無き農民達が、「天保11年」頃、突然、歴史の舞台に登場します。それは、1840年「天保11年」の庄内藩酒井侯の国替え事件に端を発しています。
 「三方国替え事件」は、長岡藩主牧野備前守を川越へ、武蔵野国川越(埼玉県)藩主松平大和守を出羽国庄内へ、庄内藩主・酒井忠器を越後国長岡へと、領地替えの命を幕府が下したから大変です。
 転封理由の真偽は明らかではありませんが、時の11代将軍・徳川家斉(いえなり)と大奥、老中水野忠邦の私情が絡んだ、継嗣騒動を原因とするのが通説です。財政が貧窮していた川越藩が、将軍家から養子に迎えるにあたり、富裕であった庄内への転封を交換条件に示したと言われています。
 当時、庄内藩は石高13万8千石でしたが、実際の収入は20万石以上あったと言われています。江戸屋敷が、江戸城北西の神田橋近くだったので「神田大黒」の異名があるほど富裕な藩でした。しかし、この国替えによって半減以下に損するのは庄内藩だけであり、あまりにも理不尽なことだったのです。
 それに当時、庄内藩主と藩民は極めて良好な関係にあったのでしょう。
 この国替えを阻止するため江戸に登ったのは、飽海地区(現在の酒田市・遊佐町・八幡町近辺)を中心とした農民たちでした。蓑・笠姿の彼らは、一見して、田舎から出てきた農民とわかり、「庄内の百姓は殿様思いだなあー」と、江戸や近隣諸国から同情をかったそうです。当時、このような陳情は打ち首の極刑でしたから、皆さん覚悟の上の陳情だったのです。外見的には柔和な遊佐の人達ですが、この簡単には引き下がらない反骨精神は、今も残っていると見ています。
 この国替えの反対運動の影には、玉龍寺(江地)の文隣和尚や、升川出身の佐藤藤佐(とうすけ)でした。佐藤藤佐は江戸で公事師(今の弁護士のような仕事)をしていた方でした。また、農民らを資金面で支えたのが、酒田の豪商・本間光暉だったと言われています。 
 そして、ここ野沢の村人の間でも、当然大きな話題になったのでしょう。
 「おれだは、なにへぇば酒井の殿様よろこぶがの・・・」などと、ことあるごとに寄り合いを重ねたことでしょう。また、村の代表者は、足げく江地の法華宗・玉龍寺に通い、文隣和尚らと協議を重ね、そして、決定したのは若年寄り増山弾正少弼や秋田藩への陳情だったのでした。
 当時、野沢村を代表する役(庄屋か肝煎かは不明?)にあった、善九郎(ゼンクロ)善作(ゼンサグ)が陳情に向かうことになり、善作は天保12年3月21日、若年寄増山弾正少弼に、善九郎(ゼンクロ)は同6月25日秋田藩佐竹侯への陳情に参加しています。
 その目的は、「万が一、幕府が近隣の藩に庄内藩取り鎮めを命じた場合、その藩主に庄内藩の農民達の気持ちを分かってもらう」ことであったと言われています。野沢の善九郎(ゼンクロ)や宮田の石垣平蔵(モンゼェン)ら27名は、秋田藩久保田城下に向かい、同25日に佐竹侯に嘆願したと伝えられています。
 当時、このような陳情は打ち首の極刑でしたから、覚悟の旅たちでした。
 これらのことは、鶴岡出身の作家・藤沢周平が、小説「義民が駆ける」の「領内騒然」の項で紹介していることですが、私が知る限りでは、遊佐郷や野沢村の農民が、歴史の舞台に登場したのは、これが唯一のできごとではないかと思われます。
 小説の中には、近郊の村々に今も残る家号がたくさん出てきます。
 読まれたらきっと、「こごらの先祖も頑張って来たの。」と感想を持たれることでしょう。
 これらの出来事を絶妙に表現して頂いた、庄内が生んだ偉大な作家・藤沢周平には感謝です。
 
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3 橇木山(そりぎやま)のこと 
 厳冬の鳥海山が落ち着きを見せ、春の息吹きが里に伝わる2月上旬頃になると、山から薪(方言で「たぎもん」)にするナラ、クヌギなどの雑木を切り出し、村まで雪橇で運ぶ、「橇木山(そりぎやま)」が始まります。
 前年の稲刈りも終わって、且つ、雪が降らないうちに指定された鳥海山の中腹の雑木を切り、家ごとに目印を付けて積み重ねて置き、それを根雪があるうちに雪橇で運び出し、その年に使う薪にしていたのでした。 
  野沢村は、鳥海山の傾斜が始まる麓にあり、地の利からも雪橇を使っての運搬に便利な位置にあります。子供の目から見て、雪橇に雑木を満載し、山からすべり降りて来る大人の姿は、力強く勇壮であり、早く自分も、あのようになりたいと思いつつ成長したものです。
 はじめて連れて行ってもらったのは、身長がようやく母親と同じ程度の1m50㎝を越えたくらいに伸びた小学校5年生になった冬のときでした。
 子供の体力に見合った、小振りの橇を与えられ、塩漬の青菜っ葉で丸めた大きな握り飯と、大根漬(デゴヅゲ)を腰に巻き、我が家に一個しかなかった白金カイロを懐に入れ、朝も暗いうちに出発した。山の中腹まで約4時間もかけて登るのだが、雪深い山中の登りは積み荷のない橇でも大変な労働であった。
 白井新田の村を過ぎると、幻想的な白銀一色の眩しい世界が広がり、感動したものです。
 行きかう村人から、「あんちゃ頑張れ」の声に元気づけられながら登ったものでした。
 目的地に着いて、日本海や庄内平野を見渡しながら握り飯を食べ終わると、休む暇もなく雪の中から2メートル程に切り揃えた雑木を掘り起こした。親から 「山の天気が変らねうち早く積んで帰るぞ」と叱咤されながら、橇に腰高位まで雑木を積み重ねる作業も大変なことだった。橇に、雑木を固定させるには積み方に工夫が必要だったが、どうしても乱雑になり、氷ついた麻ロープで固定するには相当の力が必要だった。
 両親らが「ジャッキ」と呼ぶ、ロープを締め上げる赤色ペンキで塗られた締め具を持っている家もあったが、見ていると雑木を簡単に、橇にシッカリと固定することができるのが羨ましかった。更に大切なのは、橇の両側後ろに1メートル程の長さにした、小枝付きの雑木を集めて、ほうき程度に束にして取り付け、両足でブレーキとハンドルに使うことだった。
 この雑木の束にまたがるように足を乗せ、右に曲がる時は右足に、左方向は左足に重心を移動すると、けっこう橇をコントロールすることが出来た。
 この雑木の束も、家に着くころには、雪や砂利との摩擦ですっかり擦り切れて細くなり、役に立たない状態になっていた。
 鳥海山中腹からは、晴れていれば眺めが良く、庄内平野や日本海も一望出来たが、吹雪に遭うと数メートル先しか見えず、崖から橇ごと転落する事故も現実にあった。
 親からは「落ちそうになったら、橇は捨てて飛び降りろ」等と、声を掛けられながら下るのだが、内心はスリルを覚え面白かった。
 人里がある白井新田の村あたりまで来ると、道なりが安定した。
 順調に下れば、帰りは1時間もかからなかった。
 昼ころには家に戻り、温かい昼ご飯を食べると、安堵と満足感が広がった。
 村人の中には、一日に二度も行く人もいたが、さすがに子供にはその元気は無かった。
 運んで来た雑木は、薪小屋の前に積んでおき、暇を見ては約30センチ大に切り揃え、太過ぎるものはまさかりで適当に割るのである。これは、小学校から戻ると与えられた当て仕事(ノルマ)であったが、マサカリを正確に振り下ろすことは、相当の運動量であり自然と腕力が強くなっていたものだった。
 この伝統も、昭和37~8年頃には突然のように途絶えた。
 理由は、村のほとんどの家で、燃料にプロパンガスが使われるようになり、囲炉裏をはじめ風呂焚きやかまどに使う薪(たぎもん)は、たいして、いらなくなったのでした。
 そして野沢村にも、この頃から徐々に水道、電話も引かれ、台所には手元に影が出来にくい蛍光灯が灯り、居間には白黒テレビで快進撃の柏戸の相撲を観戦するなど、農家の生活様式も徐々に改善され、急速に現在に近づいて行った時代でした。
 「橇木山」(そりぎやま)は、村の生活が一変する正に直前の、最後の残像となったのでした。
 今ではやる必要もないし、見る機会もない、記憶だけの光景です。

 (
一部、薪ストーブを使う所では復活したとも聞きますが、さすがに運搬は四輪駆動車でしょう) 
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4 江戸の「新徴組(しんちょうぐみ)」と京都の新撰組のこと
 息子が千代田区飯田橋駅近くで仕事をしていた当時、幕末期に飯田橋近くに「新徴組」の屯所もあった事を教えたことがありました。「近くで勤務するのも何かの縁であろう」と、少しは郷里のことや庄内藩の事に関心を持って欲しいと思ったのです。
 さて、幕末に京都守護職に就いた会津藩の元で活躍したのが「新撰組(しんせんぐみ)」で有名すぎるのに反して、殆ど知られていないのが江戸市中取締りに就いた庄内藩の元で活躍した「
新徴組(しんちょうぐみ)」(総勢169名)です。この新徴組も新選組も、山形県庄内町(旧立川町清川村)出身の清河八郎(幼名は斎藤元司、名は正明)が結成した「浪士組」が母体でした。
 清河八郎は、幕末の動乱期に尊王攘夷を唱え、志士達を集め、明治維新への流れを作った人で、「幕末は清河八郎に始まり、坂本龍馬に終わる」といわれる程です。映画やドラマでは、策略が強すぎる人物として、印象悪く描かれるのは残念なことです。
 とにかく清河八郎のように癖の強い人物がいなかったら、歴史は動かないのです。
 まず、JR中央線の飯田橋駅から徒歩数分、千代田区飯田橋1-9-7先の目白通り歩道上に「新徴組屯所跡」の碑があります。かつて、徳川四天王・庄内藩、酒井左衛門尉忠発(ただあき)17万石の江戸屋敷があった辺りです。幕末、参勤交代が大幅に緩和されると、京都や江戸の治安が極度に悪化していました。そこで、幕府は会津藩に京都の護りを、庄内藩に江戸の護りをそれぞれ任せ、庄内藩は江戸市中警護の主力として「
新徴組(しんちょうぐみ)」を編成しています。「新徴組」は関東近辺で募集した「浪士組」が前身で、江戸の地理や事情に詳しく、その任に向いていたそうです。
 庄内藩預かりの「
新徴組」の活躍を、江戸の人々は、「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」、「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」、「カタバミはウワバミより怖い」(カタバミは酒井家の家紋) などとうたわれたそうです。会津藩預かりの「新選組」が京都で活躍していたころ、「新徴組」もまた江戸で大活躍していたのです。また、庄内藩や新徴組の江戸市中見回りの「廻り同心」を略して「御廻(おまわ)りさん」と呼称した言葉は、現在の警察官の愛称「お巡りさんの語源にもなっているのです。
 しかし、幕末の動乱の歴史は大きく動いていました。
 幕府と薩長との対立が激化した慶応3(1867)年12月25日、 庄内藩が「新徴組」を指揮して「薩摩藩邸を焼き討ち」が引き金になり戊辰戦争が始まっています。薩摩藩邸を焼き討ちに続いて起きる「鳥羽・伏見の戦い 」では、幕府軍は薩長連合軍に惨敗し、幕府軍が敗北すると「新徴組」は庄内藩士と共に庄内へ帰国しています。庄内藩に編入された新徴組隊士は、湯田川の旅館や民家37軒に分宿、隼人旅館を本部として部隊を編成しています。再編成された「新徴組」は 慶応4年7月20日付で編成された庄内藩兵第四大隊に付属して、秋田・矢島藩との戦い「椿台の戦い」、「秋田口の戦い」などに従軍するなど、新政府軍相手に奮戦奮闘、全戦全勝するも、時代の大きな流れには勝てず、最終的に庄内藩と一緒に降伏することになります。
 庄内の土地には敵兵を一兵も入れない強さだったのに、時代の流れとは言え降伏は無念だったことでしょう。
 明治期に入り、庄内藩士約3,000人は松ケ丘の荒れ野開墾事業に着手、新徴組も参加しています。しかし、「新徴組」は関東周辺の出身者が多く、慣れない土地での開墾生活は苦痛を強いられ、次々に庄内から脱走しています。明治14年7月当時、開墾事業に着手していた名簿には、元新徴組の隊士はわずか11名しか記載されていないという。(
※この項目は関係資料から引用しています)
 なお、新徴組隊士の中で、越後国福井藩士・中川清閑の次男で「中川一」と言う人は遊佐郷の北目に残って遊佐町の発展に貢献しています。「中川一」は、明治になると江戸から鶴岡に入り、後に遊佐郷北目に居を構え、北目村の戸長になっています。晩年は、吹浦の菅野に移り、自宅に道場を建て剣道や薙刀を教えていましたが、明治25年.8月11日、70歳で没すると、菅野に葬られ高橋泥舟揮毫による墓碑が残っています。長男の中川寅三は後に遊佐郷・高瀬村の村長となり、長女・は遊佐病院の「点字音譜の祖」佐藤国蔵先生の妻になっています。遊佐病院の先生方は、きっと中川一の血を引き継いでいるはずです。以前ですが、レントゲン技師に中川先生がおりましたが末裔かも知れません。また、杉の子幼稚園の初代園長の佐藤於久二(おくに)は、国蔵先生の長女であり、長男の(いたる)先生は遊佐病院の初代院長でした。
           (
前記の情報は、主に遊佐病院の克也先生の著書からです。)
下段は吹浦の菅野橋辺り。「遊佐町歴史民俗資料館」にはいずれ立ち寄るつもりです。 
 
 
 庄内藩は江戸薩摩藩邸の焼討事件および柴橋事件(寒河江市柴橋)により新政府から敵視され、奥羽鎮撫隊の討伐対象とされた。庄内軍は仙台軍の応援を得て数的に優勢であったばかりでなく、御用商人本間家の金策で武器商人ヘンリー・スネルより武器を密輸していたため、装備は東北諸藩のなかで最も充実していた。江戸時代中期の本間光丘による藩政改革以降、領民の藩主支持も強く、農兵2,031名、鶴岡商兵184名などが加わっていた。(ウィキペディアから) 
薩摩藩邸焼き討ち事件
   
(この事件が、戊辰戦争の引き金になったことは案外知られていません)
 一年半続いた戊辰戦争の初戦の戦闘は京都南区・伏見区の「鳥羽・伏見の戦い」であった。
 この「薩摩藩邸焼き討ち事件」は、庄内藩が主導して行ったものであるが、当時、庄内藩は江戸市中取締役という、現代の警察の役割を担当していたのです。この中には、幕府から預かった新徴組、約160名も含まれていました。
 徳川慶喜が突然大政奉還を行ったため、倒幕運動の出鼻をくじかれた薩摩藩は、戦争のきっかけを作ろうと、幕府を挑発するテロ行為の数々を行うことになる。10月頃より薩摩藩の援助を受けた浪人たち約500人は、江戸市中に繰り出しては強盗や放火を頻繁行うようになった。そのテロ活動は次第に過激化し、12月23日には江戸城二の丸が炎上、同日に三田にあった庄内藩の詰所にも発砲を行った(三田蕎麦屋事件と言われる)。この事件で庄内藩に一名犠牲者が出た。襲撃を行った浪人を捕まえると、一連の狼藉が薩摩藩のしわざと分かった。テロ活動の指導者は西郷隆盛といわれる。
  これによって、徳川幕府側は薩摩藩征伐の方向へ向う。
 12月25日、三田薩摩藩邸の周囲を、新徴組を含む約1000人の庄内藩兵・松山藩兵と、上ノ山藩兵や幕府陸軍など約1000人が取り囲んだ。結果、焼き討ちは成功し薩摩藩邸は接収された。薩摩藩側の死者は50名にも上ったが、数十人の薩摩藩士は脱出し、品川沖から船で逃亡した。薩摩藩の行いに憤慨した会津藩・桑名藩は一気に討薩に傾き、鳥羽・伏見の戦いへと向う事になる。  
 
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5  遊佐四大祭について
 遊佐町が力をいれる「遊佐四大祭」のことを始めて聞いたのは、平成10年(1998)頃でした。当時、惣作は神道に宗旨替えしたばかりでもあり、帰省中に野沢の先代のタヨサマ佐藤俊明氏とお話する機会がありました。その際、頂いたのが「野沢の歴史」の記録でした。野沢のタヨサマは「龍沢館」藤名五郎左右衛門の末裔で、1567年の戦で仁賀保の加茂氏に攻められ敗北後、藤名の姓を「佐藤兵部」と改め、以後、「御嶽神社」の社家として今日に至っていますから、遊佐郷の歴史と共にあるような古い家柄です。きっと「遊佐四大祭」の指定にも、どれが相応しいのかなどの意見を聞かれたハズです。
 「遊佐四大祭」は遊佐町の歴史の中で、特に活躍し遊佐に貢献した4人の人たちに感謝する町主催の祭で、「邦碑(たいほうひ)、「佐藤政養(せいよう)」、「佐藤藤蔵(とうぞう)」、「諏訪部権三郎(ごんざぶろう)祭」と聞いたのですが、浅学非才の身には戴邦碑(たいほうひ)祭の漢字を何度も聞き直したことを記憶しています。邦碑の名称は、中国の古典「四書五経」等に詳しい方が付けた名称なのでしょうが、今の時代の合わせて、覚え易くピッタリの呼称はないものかと勝手に思っています。
① 「
邦碑(たいほうひ)」は、1840(天保11)年、江戸幕府が庄内藩主酒井忠器(ただかた)公を長岡に転封を命じた「三方国替え」の際に、転封を阻止すべく庄内領民は一団結して反対運動を展開。遊佐郷江地の玉龍寺の文隣和尚は、この阻止運動を指導し前代未聞の転封は中止となりました。以後、文隣和尚らの偉業を末永く称えて感謝する「おすわり居成祭」ともいわれます。
② 「
佐藤藤蔵祭」は、佐藤藤蔵(1718~1797)が、荒れ果てた西山の庄内砂丘にクロマツの植林のために私財を投げうった人物です。西山の砂丘の黒松の植林は、酒田の本間家が注目されますが、遊佐地域でも、佐藤藤蔵(1718~1797)は主に藤崎地区、曽根原六蔵(1742-1810)は主に菅里地区に、私財を投げ打ち植林し緑豊かな砂丘へと変貌させた人達です。
③ 
佐藤政養祭は、遊佐郷升川生まれの政養(1821~1877)は、明治維新後、鉄道助(今の運輸大臣)に任ぜられ新橋~横浜間の鉄道敷設に尽力され「鉄道創始の父」と称えられています。吹浦駅前に銅像が建立され、鉄道の日の10月14日に感謝するお祭りを催行しています。
④ 「
諏訪部権三郎祭」は1804年5月、遊佐郷は鳥海山の噴火と大地震で甚大な被害を受けました。当時の遊佐郷の代官・諏訪部権三郎は、酒井の殿様に無断で備蓄米四千余俵を被災者に与えました。この英断で遊佐郷は復興するのですが、諏訪部代官は勝手な事をしたと他所に左遷されます。しかし、遊佐郷の人々は、諏訪部代官への恩に忘れず遊佐町八日町の本願寺入口に石碑を建立し、毎年5月15日に感謝のお祭りを行っています。
        下段の画像は、遊佐町の主要施策_R7_表紙表4_HP  からです。
        「砂防植林の先覚者植栽地」には多くの先人の名があります。
 
 
 
6 山の幸、海の幸、野の幸、川の幸、地の幸、空の幸風の幸、人の幸
 野沢村は勿論、遊佐町全域は、鳥海山からの「山の幸」、日本海からの「海の幸」、庄内平野からの「野の幸」、高瀬川や月光川などの河川からの「川の幸」に加えて、伏流水や温泉も湧き出る「地の幸」、光害が少なく四季を通じて星空を観察できる「天の幸」など、あらゆる分野の自然に恵まれた、正にジオパークに相応しい地域です。難点は寒すぎることで、シベリアからの北西風が日本海から直接吹き荒れることです。これに対しても、南北 33km、長さ日本一の庄内砂丘に延々と黒松の防砂林が植林されて、厳冬期の強い季節風から、庄内平野の集落と田畑を護ってい.る他、風力発電利用に適した地とも言われ、いずれ「風の幸」、そして「人の幸」と呼ばれるかも知れません。
 ここ10年以上私は、安全で美味しい水を求めて富士山周辺に、概ね月に一回程度、伏流水汲みに出かけています。毎回200リットルもクルマで運んで飲料水や煮物、炊飯など全てが伏流水です。富士山周辺も確かに風光明媚な地域で、様々の恵みを提供していますが、富士山周辺には富士五湖があっても河川は無いに等しい地域です。富士山は地質が関係して、降った雨や雪は全て地下に浸透してしまうので、山体遊佐町地図が浸食されないため山の姿は崩れない反面、河川が生れない面白い土地です。これに比べて鳥海山周辺には、月光川・日向川・野沢川・高瀬川・牛渡川・鶯川・奈曽川・白雪川・草津川・山田川・鳥越川・洗沢川・大樽川・滝渕川・熊野川・西通川・地抜川などが縦横に流れ、庄内平野の田畑を潤して農産物を育てています。
 これらは、この地域の決定的に有利な点であり、先人から引き継がれた大きな財産です。
 その源は鳥海山の豊かな降雪であり、また麓のブナ林や地下に蓄えられたミネラルたっぷりの水源です。この水源で育てられた農産物も、河川や海の魚介類、海苔などが美味しくなるのは、全て良質な水質の影響です。そして、これら全ての恩恵を受けているのが、その地域で生活する人達であると忘れてならないことです。
 遊佐町では、晴れた夜には天の川や星空を観察できます。雲ではありません。
 
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7 惣作が結婚相談員をしていた当時の話 
 遊佐町では、現在も「結婚相談員」「結婚コーディネーター」のような方は数名おられるのでしょうか。独身者が多過ぎる昨今、逆に大変だと推察すると同時に、特に個人情報の管理面からも余計な事に気を遣う必要が伴い、難しい時代になったと思っております。
 惣作は、昭和53年(1978年)53歳ころから、79歳で脳梗塞で倒れるまでの約26年間、この結婚相談員を委嘱されており、この間、49組まとめたと語っています。「結婚相談員」制度が、いつから始まったのか正確には知りませんが、昭和50年(1975年)当時、遊佐町でも深刻な嫁不足、婿不足の危機の声が挙がっていました。それを何とか補うために、年間7~8万円でクルマのガソリン代金程度の報酬ながら、惣作は、結構やる気を出して、あちらこちらにアクティブに動いていました。結婚が成立した際の、いわゆる成功報酬もあったようですが、正確には聞いていません。
 この「結婚相談員」には、結婚適齢期の名簿が町役場から渡されていて、いかにマッチングするかは、事前に町の独身者の住所や電話番号は勿論、年齢、職業、収入などの個人情報を把握しておく必要があり、「それなりに気を遣うものだ」と語るときがありました。
 携帯電話も普及していない時代ですから、事前の打合せもセッテングも大変だったハズです。
 約26年間で、49組まとめた中には、韓国から招いた嫁さんも数人おられたと聞きいています。
 そして、道の駅「ふらっと」が計画されると、この嫁さん方が中心になって「韓国料理店」を出すことになります。惣作が「韓国料理店」開業にどの程度発言力を持っていたかは不明ですが、道の駅は「地産地消」が大原則であり、道の駅を運営する自治体の理解や協力が無ければ開業できません。
 きっと、「せっかく異国から遊佐町に嫁いでも、仕事も無ければ寂しい思いをするであろう。」との、町の関係者の配慮があったはずです。あれから約30年、最近では、この道の駅で「韓国フェア」なるものが企画されているようで、すっかり町に熔け混んでいる印象です。
 実は、道の駅「ふらっと」が出来て間もないころ、惣作から、この話を聞いたので、この韓国料理店に出かけたことがありました。そして、それらしき女性店員に「アニンハセヨ」と挨拶をすると、笑顔で「アンニンハセヨ」と返ってきたのです。
 そこで、「ふらっとに アンニハセヨの 笑顔あり キムチ料理も 遊佐の味なり」と詠んでいます。
 あれから随分と歳月が流れましたが、どんな風になっているかと気になって、吹浦の菅野に嫁いだ妹に買い物に行ったついでに、「韓国からの嫁さん方も70歳前後になるが、ちょっと覗いて欲しい。」と連絡したところ、数日後に「みんな日本人に見えて検討が付かない。」と返事がありました。
 韓国からの嫁さん方も子供や孫に恵まれ、韓国料理とともに遊佐の街にすっかり馴染んでいるものと受け止めています。しかし、遊佐町民の中には、地産地消の「道の駅」になぜ韓国料理店があるのかと疑問を持つ方もおられると思いますが、こんな歴史があったことも少し知っておく必要があると思います。
 ところで、「遊佐パーキングエリアタウン(道の駅鳥海移転整備)事業」が公表され木造2階建て、茅葺き風、切妻屋根の純和風のようですが、この韓国料理店も必ずや入るものと期待しています。
 惣作が「結婚相談員」当時に町の機関紙で紹介された内容です。
 
 
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8 遊佐町人口減少問題の考察  
 先日、遊佐町内に嫁いだ野沢出身の同級女性と電話で話す機会がありました。いろんな近況遊佐町地図報告を受けたと同時に、お互いが知っている同級生の皆さんの消息や現状、そして、あちらこちらで高齢の独身男女が多くなった話題が中心となって、「こまた(困った)時代になったもんだ。」と諦めムードを語っていました。
 また「広報ゆざ」の訃報欄の人数の多さに比べ、生まれた赤ちゃん誕生の掲載の少なさに驚きます。
          (人口の変動には死亡数と出生数の差による「自然増減」と、
          転居による流出数と流入数の差による「社会増減」の二つの側面がある
。)
 それに町の広報誌に、空き家が町内で500軒を超えたのに、「空き家バンク」に登録された空き家は11軒だけだと嘆いている記事もありました。
 このような問題は全国的な傾向で、何も遊佐町だけの問題ではないと思います。
 この原因はいろいろあって、解決に向けた決定打など思いつきません。
 と断言してはお話になりませんから、せめて思うのは、逆に人口が増え続けた戦後の当時の世相に何か問題解決のヒントがあると思っております。
 戦後の昭和22年から25年辺りを一括りに「団塊の世代」と呼ぶことがありますが、誕生する子供は年間260万人を軽く超えていました。戦争が終わって、戦地から多くの若者が郷里に戻って結婚したことを一番の理由に掲げますが、それだけではないと思います。一番大きい理由は、戦後の20年から30年近くは、旧憲法の影響が強く残り、良し悪しは別にして、明治憲法下の民法で規定された「家制度」や「家長制度」と呼ばれる制度は、田舎に行けば行くほど根強く残っていた印象でした。
 そして、両親や叔父・叔母の世代は、家長をはじめ、親族、世話役たちが「この二人は似合いだ」と、見つけて来たお相手との見合いによる結婚が殆どの時代で、自由恋愛による結婚は少数だったと聞きます。
 しかし、昨今は、この世話を焼く人物自体が極端に激減したことも、適齢期の男女が結婚に踏み切るチャンスを逃がす原因の一つと見られ、生まれる子供が比例して激減するのも当然の成り行きです。
 近年は特に、女性の社会進出が進み自立した女性が多くなり、男女とも一般的に高学歴となり、相手にも収入など高い基準や理想を求める傾向も一因とされます。映画「たそがれ清兵衛」の叔父役の丹波哲郎が、「顔など付いていればいい。丈夫ならそれでいいではないか。」と、清兵衛に説教するセリフを思い出しています。そして、急速な人口減少問題過疎化問題、空き家問題墓じまい問題、火葬場不足、労働者不足、税収の減少、消費激減、輸血用血液不足、後継者不足問題などは、全て横並びの問題と思われ、今の制度や風潮、考え方では打つ手がなく結局行き着くところまで行きそうです。そして焼け石に水の対策より、確実に到来する人口減少によるメリットもあります。それは、「ウサギ小屋の解消」、「渋滞の緩和」、「余計な公共施設の削減」、「自然の復活」、「24時間営業の廃止」なども期待されます。よって、必然的に人口減少に合わせた「コンパクトな街つくり」を目指すなど、今から対策を練っておく以外にないのではありませんか。
 
 
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 9 「遊佐町史」上下巻を購入しています
 遊佐町史(上巻)は平成19年(2008年)度に、更に令和5年(2023年)度に遊佐町史(下巻)が発刊されました。この「遊佐町史上下巻」をまとめて購入したのは今年(2025年)2月です。それは、昨年、親族から「我が家のご先祖の名前が何名か掲載されているよ」と聞いていたことが切っ掛けです。
 下巻の「遊佐町史編纂委員会会長」の渋谷隆士氏が、「遊佐町史下巻の編さんにあたって」の巻頭の挨拶文の中で、「町史上・下巻で遊佐町の通史として、特に若い人達に少しでも関心を持って頂きたく、又地元を離れても故郷を語れる人になって頂きたく、編纂に当って反省と感想を申し述べました」とあります。また、「必ずしも通読せずとも必要な箇所だけ読んでみるとか、祖先の関係だけ読んでみるとかして、座右の書にしてもらえれば関係者として喜びに堪えません。」とあります。
 この言葉は、郷里から遠く離れて暮らす我が家にピッタリ当てはまる呼びかけです。遊佐町地図
 近年の我が家では、妻方の酒田市内の両親を含め、親が次々と亡くなった上、更に数年間続いたコロナ禍の影響もあって、帰省の機会が極端に遠のいていました。それが今年(2025年)1月末に幼少時からお世話になった京子叔母が94歳で亡くなり、6年ぶりに夫婦だけで帰省したのです。すると、遊佐町では、日沿道「酒田みなと~遊佐」が開通したほか、野沢近くには「遊佐カントリーエレベー」や吉出の元酒造業「鳥海」跡に「遊佐蒸溜所」が建てられ、更に、遊佐町役場も立派な庁舎に生まれ変わっており、昔からの景観がかなり変化していたことで、若干の浦島太郎気分を覚えたものです。今後も、帰省の機会は減ると予測されますから、「遊佐町史」を座右の書として、郷里からリアルタイムで送られて来る「ライブカメラ映像」を大型テレビで鑑賞しつつ、更に毎月発行の「広報ゆざ」を細部まで讀むことで、望郷の思いを埋めようとしている今日この頃です。
 
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10. 遊佐町の「野沢断層」のこと。
  1964年(昭和39年)6月16日13時1分発生の「新潟地震」の記憶は、中学生でしたからハッキリ残っています。大きな地震の前には、前兆の地震が多発すると言われますが、その数年前から震度3前後の揺れが頻繁に発生していました。
 そのたび「そのうちもっと大きな地震がくっぞ」と言われたものです。
 また「地震は地下に大きなナマズがいて、時々暴れるから起きる。この辺りではナマズの頭は鶴岡辺りで、野沢村辺りはしっぽの上だから揺れが大きくなる。」とまことしやかに言われたものです。当時は野沢断層など聞いたことはありませんが、年寄りの話しもバカに出来ないと後年に思ったものです。
 右の図面によると、断層が村の近くを南北に走っているのが分かります。地質や地震の知識がなくても、野沢村界隈の壇差や地層を調べたら、案外簡単に分かるかも知れません。 
 「
庄内地震」は明治27年(1894年)10月22日に起きた大地震ですが、震源は庄内平野北部とされ、死者726人、全壊3858棟、全焼2148棟という大惨事となった。発生時間は午後5時30分ころで、多くの家庭で夕食の準備中だったことから大火となり、酒田の町は焦土と化したとあります。
 野沢断層の正確な記録は不明ですが、この「
庄内地震」で出来た可能性もあります。
 野沢断層は「庄内平野東縁断層帯」の一部とされます。
 庄内平野と出羽丘陵の境めに分布する活断層帯で、遊佐町を頭にして酒田市の東部を経て鶴岡市に至る断層帯です。国の地震調査委員会は、この断層の長期的な地震発生予測(暫定値)では、30年以内の地震発生確率は最大6%で、マグニチュード(M)7・5程度と予測しています。
庄内平野東縁断層帯」の形を良く観ると、登り龍のように見えて来ました。吉と出るか凶と出るかは不明です。この「野沢断層」のことは中・高生の皆さんには良い研究題材になると思います。
1:25000活断層図 
 
第186回企画展 「酒田大地震と新潟地震」 0186.pd
 
 芭蕉が象潟を訪問したのは1689年。地震は115年後であり土地が隆起し景観は一変しています。
 
 
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 遊佐町野沢で生活していた当時の体験や、祖先や両親、親戚等に関連した当たり障遊佐町地図りのない話しばかりです。個人情報も含まれていますが、皆さん連絡が付く方ばかりであり、苦情やミスには直ぐ対応出来ます。願わくば。これらの情報から、ご自分の家のことや村や町のことを勉強する切っ掛けにして欲しいものです。なお、野沢に関すること限定で、悪口や商売以外でしたら、無料で掲載しますからご連絡下さい。取り合えず祭礼などの行事が理想と思います。
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