3 同級生の講演「当地暴力団の実態・・・暴力団とその犯罪(元鶴岡署刑事第二課長大川隆雄氏) |
大川氏は、県立遊佐高校(普通科)の同級生で同じクラスでした。同氏は、山形県警の米沢警察署長・警察学校長などを歴任していましたが既に勇退しております。下段の講演は鶴岡警察署刑事第二課長当時に、主に鶴岡警察署管内の会社経営者などの皆さんに、管内の「 暴力団の実態」をお話するとともに、「暴力団を恐れない」「暴力団に金を出さない」「暴力団を利用しない」で欲しいと「暴力団追放三ない運動 」を具体的内容を交えて講演しております。
なお最近では、「+1.暴力団と交際しない」をプラスした「暴力団追放三ない運動 +1」を広報してお願いしております。下記の講演は、同氏が35歳当時のもので約40年前の話ですが、基本的には今でも十分に通用する内容と思います。 |
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4 野沢公民館には公衆無縁LANサービスは入っていません。 |
昨年(令和6年)年頭発生の「能登半島地震」では、無料で利用できる公衆無線LANサービスが整備されていないことや、受信アンテナの破損等から被災者に十分な情報伝達が出来ない状況が生じていました。せっかく、Wi-Fiに対応したスマートフォンやタブレットなどを持っていてもLANサー ビスが整備されていなければ宝の持ち腐れです。最近では、遊佐町の多くの皆さんも、Aiphoneやアンドロイドなどの高性能な携帯電話を使用しているようです。スマホ(スマートフォン)は、音声通話だけでなく、パソコンと同じようにインターネットに接続するためのオペレーティングシステム(略してOS)を備えた携帯電話の総称です。
しかし、光ファイバーを使ったインターネット回線の未接続の公共施設、店舗、一般家庭が多くみられ、パソコン利用をはじめ、携帯の消費ギガ数を気にしないで使うことが出来ないことから、情報弱者が多いようです。野沢公民館に無線LANサービスを入れない理由は、施設の管理面や所有権、老朽化、耐震性などが考えられますが、災害時には隣の「農村公園」は避難場所に指定されておりますから、便宜を図って欲しいものです。そして、僻地の村であっても公的施設である公民館には、無料で利用できる公衆無線LANサービスが整備が急がれます。また、このような施設で利用方法を含めた講習会を頻繁に開催して、情報弱者の減少対策を推進して、便利な街にして欲しいものです。
「遊佐町では平成30年4月より避難所の指定をしている施設にアクセスポイントを設置し災害時の情報の提供ため公衆無線LANを整備いたしました。平常時は通常の公衆無縁LANサービス(一般的にフリーWi-Fiといわれるもの)と同等に使用することが出来ます。一度設定をすれば、広域のアクセスポイントが利用できます。また、次回の利用時は簡単に使用することができます。災害に備え事前の設定と利用をお勧めいたします。接続方法については遊佐町公衆無線LANの使用方法(PDF形式)をご覧ください」とあります。
■遊佐町管理の施設で使用できる場所
・遊佐町役場(遊佐町防災センター)
・遊佐町生涯学習センター
・町民体育館
・蕨岡まちづくりセンター
・高瀬まちづくりセンター
・稲川まちづくりセンター
・遊佐町総合運動公園
・杉沢比山伝承館
・旧青山家住宅
・中学校体育館
・すべての小学校の体育館
・道の駅鳥海ふらっと
・遊佐駅 |
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5 野沢でお世話になった人はウゲジの晴美さん一人だけです。 |
「野沢でお世話になった人はウゲジの晴美さん一人だけ。」と言い切ることが出来ます。
家号「ウゲシ(卯吉)」とは遠縁ながら、明治中期(明治36年(1903年)当 時、曽祖父の(旧姓・佐藤)丑太郎が新潟県の海寄り最北の中浜(現・村上市)から白井新田開墾の出稼ぎやって来て、居候した家が渋谷ウゲジ(卯吉)でした。曽祖父とウゲジのジチャとは晩年まで仲良しで、頻繁に往来していたことは、幼い当時から記憶していることです。(一緒の写真が何枚かあるのに見つかりません。ウゲジは鳥居の奥です)
晴美さんはウゲジの一人娘(のはず)で婿取りでしたが、78歳で日本海病院で8年前に亡くなっています。私より12歳上と知ったのは葬儀の後でした。お世話になった始まりは、私が生まれて間もなくから“子守り”を晴美さんにお願いされており、「お前は晴美の背中で大きくなったようなものだ。晴美の中学の制服に小便して汚した事もあった。」と、惣作から何度も言われ続けていたのです。私は晴美さんが中学1年になった年に生まれていますから、中学校から帰ると真っすぐ我が家に立ち寄って、私はおんぶされてウゲジの家に連れて行かれていたのです。当然、その頃の記憶は薄いのですが、ウゲジの家の間取りや屋敷の様子は今も記憶しています。
現在、ウゲジの家は建て替えられていますが、屋敷に入って真っすぐ奥に小さな祠(お稲荷かは不明)は今も残っています。その祠の前は2〜3メートル位の坂道になっていて、私は歩けるようになると、その坂道を上り下りするのが楽しかったのか、何度も登ったり駆け下りたりした記憶があります。まだ滑り台など無かった時代ですから、子供がしつこく何度も繰り返すのと似たような遊びだったのでしょう。晴美さんが中学校を卒業する前に、私の子守りも終わるのですが、私も三歳近くになっていました。しかし、その後も何の理由もないのにウゲジの家に一人で遊びに行っては、祠の前の坂道や直ぐ隣の袈裟井戸辺りで遊んでいたものです。
父親から、「もうウゲジには行くな」と言われたのは、小学校に行きはじめた頃でした。その理由は、晴美さんが二十歳位で婿を取ることになったからでした。なんとなく、子供心にそんなものかと思い納得したものです。とは言え、狭い村ですから度々出会うのですが、晴美さんはそのたびに「おおきぐなったのぉ-」言うものの私を見る温かい目は他の人とは全く違っていました。 |
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6 ウゲジの晴美さんが亡くなったことを知った時のこと。 |
8年前の8月下旬のことでした。この頃は妻の母(義母)が92歳で酒田市内の日本海病院に入院中であり、概ね月に一回の割合で、毎回二泊の予定で見舞いを兼ねて帰省して いました。
義母も高齢且つガンも発病しており、先がないことは分かっていたので、妻に納得いくまでと思い頻繁に顔を見せていたのです。
その日は、病院から直接東京に帰宅する直前の話でした。妻の姉が病院を訪問したので、待合室で姉妹が雑談していたとき、何となく晴美さんのことを思い出して、私は妹に「ウゲジの晴美さんが元気か知っているか」とメールで連絡したのです。当時、妹は看護婦だった経験を生かして、訪問介護の仕事していたのですが、「分かったら教える」と簡単な返答が届きました。そして帰宅の時間も迫っていたので、午前10時すぎクルマで日本海病院を後にしたのです。
妹から次の連絡があったのは、同じ日の正午頃でした。
私は既に新潟県内に入っていましたが、その回答に驚いたのです。
妹は、吹浦の高齢者宅(富樫方)に訪問していたところ、その家に「野沢の晴美さんが、今、日本海病院で亡くなった」と電話が来たのを聞いたのでした。つまり、その家の訪問介護中の高齢者の妻は、何と晴美さんの従妹だったのに、それを知らずに訪問介護を担当していたのでした。
更に驚いたのは、息を引き取った時間帯を逆算すると、私が日本海病院に居た時間であり、妹に晴美さんのことを調べて欲しいと連絡した時間だったのです。晴美さんとは、父の葬儀のとき顔を合わせて簡単な会話はしていましたが、その後、約10年は特に会ってはいないのです。
それが突然、日本海病院の受付ロビーで思い出したのですから、これを何と説明すればいいのかです。妹からは、「霊感があるじゃないの?」、「病院の受付辺りを霊になって歩いていたのでは--?」と言いますが、この偶然を思うと簡単に否定することが出来ません。ただただ急に気になって、「晴美さんも80歳近くなるのかな・・次回は手土産持って訪問しよう。」と考えていたのは確かです。妹から死亡の連絡を受けて、引き返して弔問すべきかとも迷いましたが、翌日から仕事が入っていたのです。
しかし、関越道を運転中もずっと頭から離れず、妻に「不思議な事もあるもんだ」などと話かけると、妻からは「今度帰ったとき行けばいいのでは・・」と言われ、翌月の帰省時に直接ウゲジを弔問することにしたのです。翌月の下旬に、電話を入れてからウゲジを訪問したのですが、まだ納骨の前で仏壇には遺影のほか様々の飾り付けが残っていました。婿さんの勝夫さんには、晴美さんにお世話になった話をしたところ、「聞いた事がある。」と答えていました。後に夫の勝夫さんも病身だったと知り、残念ながら数か月後に晴美さんの後を追うように亡くなっています。もちろん、敷地の奥に祀られた祠にも手を合わせて来ましたが、幼いころ大きく見えたのに、コジンマリした祠と良く駆け登って遊んだ坂道を懐かしく思い出しました。ついでに隣の「袈裟井戸」も確認して来ましたが、蓋がしてありました。現在のウゲジは、お二人の長男のミツヒロさんが家を継いでいるそうですから、次の帰省には、訪問して感謝を伝えたいと思います。 |
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7 野沢の佐藤家とあるが、苗字ではどこの家か分からない。 |
「庄内地方民家史の研究」 2004年3月 著者は御船達雄
第2部 民家の地域性 第1章 「中門造の形成に関わる検討」 Honbun-3808 (2).pdf
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内容は、「本屋から中門と呼ばれる曲り部分を突出させる中門造については、多様な 民家の造りの中でも早くから注目され、これまでの民家採訪や地理学による分布域調査、そして復原調査によって、分布域や形成過程が、おおむね明らかとなっている。このうち形成の過程と要因については、東北日本海側深雪地域に多く分布することから、冬期出入りの通路と内馬屋を兼ねたものとして、17世紀から18世紀初期頃1に形成されたと考えられてきた。ただしこの場合の中門とは、馬屋を内包する、馬屋中門のことであって、その他の種類の中門はことさらに対象とされず、またその「中門」名称の由来についても考察される機会は少なかった。」と書き出しています。そして、写真6「両中門が撤去された佐藤家(遊佐町野沢)」と説明書きがありますが専門的過ぎて興味は湧きません。何か面白い説明や話題があるのかと期待したのですが、見つけることが出来ませんでした。野沢では苗字だけでは何処の家なのかサッパリ分からないものです。
この佐藤方は、野沢の親戚からの情報で、「タヨサマ」の家と知りました。
教えて頂き有り難う御座います。
なお御船達雄氏の略歴は、和歌山県は大正5年(1916年)に白茅会が誕生し、民家の採集調査を開始した。建築史は戦後に寺院の復原方法を民家に適用し、「復原的調査および編年」の調査方法が画期である。昭和38年(1963年)に民家小委員会が「民家調査基準T」を発表し、民家緊急調査が昭和41年度から都道府県を単位に開始され、重要文化財の指定、修理、活用が進められた。本年は民家調査基準が作製されて60年という節目を迎えたことで、近年の研究動向を踏まえ、今後の民家研究を展望する。とあります。 |

Honbun-3808 (2).pdf 44頁からです。 |
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