5 ビアク島上陸
 
 昭和18年12月25日、我々は目的地のビアク島東南沖に着いた。

 丁度引き潮で、一キロ近くも潮が引き、波も静かな南海の孤島であった。離れて眺める島は、エメラルドグリーンの海に浮かぶ緑に覆われた美しい島である。船を接岸する港はなく、島から随分離れた所に停泊する。

 さっそく、我々より早く上陸している、「海軍陸戦隊・暁部隊」の船舶工兵一個小隊による上陸用大型船艇で上陸作業が開始された。兵士・軍属約1万2千名の上陸はその日の夕方までかかり、食糧、弾薬等の荷降ろしは相当日数を要し、海上からは、連日クレーンの音が響いていた。

 ビアク島は、ニューギニア島西北部のチェンドラワシ湾に浮かぶ、二等辺三角形を左に傾けたような形をした島で、南北約20キロ、東西約12キロ、一周約60キロ、島の周りは珊瑚礁で囲まれ、砂浜には椰子の木立が豊かに茂り南国情緒が豊かであった。

 この島は赤道直下にしては住み易い方なのか、原住民パプア族も海岸沿いに海上に張り出した丸太小屋に住んでいた。
 男はふんどし、女は腰蓑を巻きつけた裸に近い格好であった。

 心配していた原住民の抵抗は全くなかった。

 又、島内の至る所に鍾乳洞があり、この洞窟は後に空襲時の避難や物資の保管場所、更に兵士の宿舎代わりになった。食糧となるバナナ、ヤシの実、パパイヤ等の南方の果物も豊富と聞いてはいたが、精々原住民の人数に丁度程度の収穫量であり、一度に一万人以上の兵士が上陸したのであるから、我々兵士の腹を満たすことはなかった。

 それにしても、ビアク島の原住民パプア族に対しては、食糧の確保をはじめ、随分生活を脅かしたことであろうが、当時の我々には、原住民のことまで思いやる気持ちを持ち合わせていなかった。

 我々の上陸地点はボスネックという港だった。港といっても、現地人がカヌーの出入りに使用する程度の、小さな入り江であったが、上陸用大型船艇を使っての上陸には一番適している所で、後に米軍もこの地点から集中的に上陸してきた所となった。
 我々「
工兵隊木工班」10名は、ボートに乗り換え一足先に上陸し、葛目部隊長が休む小屋造りに取り掛かった。二間に三間の小屋である。その日のうちに完成させた。

 我々木工班10名は、翌日からも野戦病院をはじめ、兵士の宿舎等を次々に造り続け、大工の技術は最大限に利用された。

 次は、道路作業を開始し、ボスネック港からマンドンまでの約2キロの道路は19年2月頃までに造り終えた。これと並行して、ジャングル内を縦横に切り開く、道路構築と飛行場工事に取り掛かり、工兵中隊(約2百30名編成)の3個小隊のうち、1個小隊は道路、2個小隊は飛行場を担当した。
 
 我々、工兵中隊は昼夜の別なく働き続けた。

 又、この作業には全部隊から、将兵の別なく加わり、突貫工事で19年4月頃までに造り終えた。全ての工事が終了の日、全部隊を完成したばかりの飛行場に集め、葛目部隊長から訓辞があった。 

 「この編成を以て米英に当たるならば、米英ごときは一蹴である。」と繰り返し、爛々と輝く目で語った様子を今も脳裏に焼き付いている。
完成した飛行場右上の島はアオキ島
 第222連隊1万2千有余の将兵は、心ひとつになっていた。
 
 
輸送船団 6連日の空襲
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