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昭和19年3月ころ、部隊運用に幾らか余裕があったのか、我々第一大隊・第二中隊の工兵中隊第三小隊は、澤田少尉の指揮で約20日間、ビアク島の隣島「ヤーペン島」に道路工事に行ったことがあった。
この島には、日本の看護婦訓練所があり、看護婦が60人もいた。ここで看護教育を受け、各地の野戦病院等に送られるのであろう。若い女性の身ながらご苦労なことと思った。
昭和19年4月17日(この日、サルミに米軍上陸)、ヤーペン島からビアク島に戻ったところ、丁度、ボスネック沖には駆逐艦一隻と輸送船二隻が入いっており、我々工兵隊も直ぐ荷降ろしを手伝った。ところが、正午近くになり、今にもスコールが来そうな天候を恨めしく思いつつ、見上げた空の雲の切れ間からロッキード戦闘機が急降下し、私の足元数メートル付近に機銃の弾痕を残して上昇した。
二回に渡り機銃掃射を受けた。こちらも艦上から砲撃したが何の効果もなく、私の目の前で、作業中の兵士30余名の死者が出た。
これが我々がビアク島に来て最初の敵機飛来による被害であった。
その日、米軍は、ビアク島に程近いサルミに上陸し、拠点固めをしていたのであった。空襲はこの日を境に連日続くことになり、更に日を増して激しくなる一方となった。
ビアク島に米軍が上陸する、昭和19年5月27日まで約40日間は、毎日3回は定期便のように、40機前後で飛来し、爆撃を続けたのである。
一回に平均40機とし、一日に3回、つまり120機が飛来する計算になる。
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ニューギニア北部、サルミ地区 |
爆弾投下数も、「コンソリデーテット重爆撃機B24」一機に爆弾4発を積めば120機で480発、40日間で1万9200発の爆弾投下数であり、驚く数字である。我々は空襲のたびに、近くの洞窟に避難したが、至近に爆弾投下されたときは洞窟内が大地震のごとく揺られ、鍾乳石が砕けて落下した。
この爆撃は30から40分続くのであるが、皆息を沈めて敵機が去るのを待つだけであった。
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島中の至る所に、爆弾による大きな穴が開き、滑走路は埋めても埋めても爆弾にやられた。
当時の日本軍はブルドーザーなどはなく、我々兵士がスコップで埋めていたのである。形のある建物もすべて姿を消し、上陸当時、海岸線に美しく茂っていた椰子の木立も、爆弾で鉈で削られたように倒れ、ヤシの実などは全くなかった。
更に、人的被害も大きく、爆風による戦死者を含め、マラリア、デング熱等の病気で、米軍が上陸するまでの間に、工兵中隊では四分の一の兵士が既に戦死していたのである。 |
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