1 遊佐町史上巻で紹介された「平家の落ち武者伝説」の内容
〜平家の落ち武者伝説は、もう少し深堀りしたいと思います。
2 一昨年の「二十歳を祝う会」で野沢の成年が代表挨拶をしています。
〜ただ残念ながら、私は松田姓を知りません。
3 令和7年の遊佐町集落別人口調査(野沢部落抜粋)
〜野沢の人口は354人(男188人、女166人)、世帯数は129世帯です。
4 アピールしないと、何も無かった事になる。
〜今の時代は損する典型です。 |
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1 遊佐町史上巻で紹介された「平家の落ち武者伝説」の内容
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遊佐町史上巻の388頁「朝日山城主池田氏」の項目には、「この池田氏の「来歴」によれば、藤原秀郷裔、平氏負亡(1185)によって兄弟五人がのがれて当国に至って飽海郡土路沢(八幡町泥沢)に住み、のちに一人は大内目(遊佐町蕨岡)、一人は升田(八幡町)、三人は芹田(八幡町)に住んだ。初代彦太郎秀盛より芹田の地で三貫を食み、後孫が朝日山に拠城、16代の讃岐守盛周が天正(1573〜)に至って大宝寺に従ったという。」と紹介してあります。
その後の調査で、その5人の息子達は、源氏からの厳しい探索から逃れるため別々に暮らすことになります。酒田市八幡の光浄寺(酒田市芹田家ノ下2番)近くには、池田兄弟 が別れの酒盛りをしたという「兄弟水酒盛り塚」と呼ぶ塚が残っています。そして、長男・秀盛は泥沢の山中に住み、二男は最初に辿り着いた升田という谷の奥地(玉簾の滝近く)に、三男と四男は芹田(せつだ)に、五男は豊岡(現在の遊佐町豊岡水上)に分かれて、日向川流域の川沿いに住み続け上手に土着したと見られます。それぞれ子孫に恵まれ、各村も発展し現在に引き継がれています。
そして約388年の時が流れて、池田盛周(もりちか)は朝日山を拠城として天正(1573〜)に至って、大宝寺義氏(武藤義氏)に従っています。更に、元和8年(1622年)最上家がお家騒動で失脚後は、代わって庄内に入った酒井家から、池田盛周は「旧・領荒瀬郷古川村100石を賜わった。」とあります。この時、盛周自身が古川村や隣の草田村に居住したかは不明です。推測ですが、古川の隣接の草田村には多くの池田姓が見られることから、自身が地頭として管理する村に、親族を呼び寄せたとの見方が出来ます。
なお、平家の落ち武者5兄弟に縁の人物として、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)の池田正之輔、三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬がおられます。池田正之輔(1898年〜1986年)は観音寺村芹田(せつだ)出身でしたから三男か四男の末裔でしょう。
池田盛周は通称は讃岐守で、悪次郎と名乗ったこともあるそうです。本来「悪」は「突出した」「力の強い」という意味合をもつそうですから、池田正之輔や池田成彬は本当の悪太郎でしょう。尚、本楯・草田の池田家は、升田村に残った次男の末裔であることが有力です。 |
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2 一昨年の「二十歳を祝う会」で野沢の成年が代表挨拶をしています。 |
いささか遅きに失した感がありますが、二年前の2023,年(令和5年)1月10日の荘内日報社の下段の記事に、「野沢の参加者代表の松田簾さん(19)=野沢、公務員=が「さまざまな場面で壁に直面し悩み傷つくことがあると思うが、励まし合った仲間がいることを忘れず日々、自己研さんに努め向上心を持って明るい未来へ歩んでいく」と謝辞を述べた。とあります。インターネットで「遊佐町野沢」と検索したところ、有難いことに、この渋谷惣作の「ビアク島からの生還」も上位検索されますが、この下段の記事も検索されたのです。
ただ残念なことに、私は「松田」姓のお宅を知らないのです。10数年前発行の「ゼンリンの住宅地図」にも掲載してありません。つくづく浦島太郎であることを実感しております。
おくればせながら、参加者代表の松田簾さんおめでとう御座います。 |