野沢の話題 7
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1 遊佐町史上巻で紹介された「平家の落ち武者伝説」の内容
      〜平家の落ち武者伝説は、もう少し深堀りしたいと思います。
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1 遊佐町史上巻で紹介された「平家の落ち武者伝説」の内容
   遊佐町史上巻の388頁「朝日山城主池田氏」の項目には、「この池田氏の「来歴」によれば、藤原秀郷裔、平氏負亡(1185)によって兄弟五人がのがれて当国に至って飽海郡土路沢(八幡町泥沢)に住み、のちに一人は大内目(遊佐町蕨岡)、一人は升田(八幡町)、三人は芹田(八幡町)に住んだ。初代彦太郎秀盛より芹田の地で三貫を食み、後孫が朝日山に拠城、16代の讃岐守盛周(もりちか)が天正(1573〜)に至って大宝寺に従ったという。」と紹介してあります。
 その後の調査で、その5人の息子達は、源氏からの厳しい探索から逃れるため別々に暮らすことになります。酒田市八幡の光浄寺(酒田市芹田家ノ下2番)近くには、池田兄弟が別れの酒盛りをしたという「兄弟水酒盛り塚」と呼ぶ塚が残っています。そして、長男・秀盛は泥沢の山中に住み、二男は最初に辿り着いた升田という谷の奥地に、三男と四男は芹田(せつだ)に、五男は豊岡(現在の遊佐町豊岡水上)に分かれて、日向川流域の川沿いに住み続け上手に土着したと見られます。それぞれ子孫に恵まれ、各村も発展し現在に引き継がれています。そして時は流れて約388年、池田盛周(もりちか)は朝日山を拠城として天正(1573〜)に至って大宝寺に従っています。更に、元和8年(1622年)最上家失脚で庄内に入った酒井家から、池田盛周は「旧領荒瀬郷古川村100石を賜わった。」とあります。
 この時、盛周自身が古川村や隣の草田村に居住したかは不明です。推測ですが、古川の隣接の草田村には多くの池田姓が見られることから、自身が地頭として管理する村に、親族を呼び寄せたとの見方が出来ます。
 なお、平家の落ち武者5兄弟に(ゆかり)の人物として、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)の池田正之輔、三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬がおられます。池田正之輔(1898年〜1986年)は観音寺村芹田(せつだ)出身でしたから三男か四男の末裔でしょう。池田盛周は通称は讃岐守で、悪次郎と名乗ったこともあるそうです。本来「」は「突出した」「力の強い」という意味合をもつそうですから、この池田正之輔や池田成彬は本当の悪太郎でしょう。尚、本楯・草田の池田家は、升田村に残った次男の末裔であることが有力です。
 
 
 
2 一昨年の「二十歳を祝う会」で野沢の成年が代表挨拶をしています。(工事中) 
   野沢の参加者代表の松田簾さん(19)=野沢、公務員=が「さまざまな場面で壁に直面し悩み傷つくことがあると思うが、励まし合った仲間がいることを忘れず日々、自己研さんに努め向上心を持って明るい未来へ歩んでいく」と謝辞を述べた。
 
 
 
 
 
この遺跡は1995年に県営圃場整備事業のために試掘調査が実施されて、希少な低湿地遺跡であることがわかりました。泥炭層が獣骨・魚骨・骨角器や木製品・木の実など有機質の遺物を腐食せずに保存していました。深いほどに古い時期の土器や石器が堆積しており、縄文時代の晩期前葉から早期後葉までさかのぼることが確かめられています。調査は7次までが県教育委員会、8次からは遊佐町教育委員会が主体となって継続しています。最近の調査の目的は、低湿地に幾多の遺物を残して中心となった、後期縄文人の集落の位置を探すことでした。昨年の12次では低湿地を調査していますが、今年の13次は丘陵面北半と山麓斜面に96 ヵ所の試掘坑を設けて分布を調べ、遺構や遺物の保存状況から4ヵ所の調査区を発掘しています。その結果、岩石が露出する丘陵上にも晩期の縄文人が居住していたこと、そして驚いたことに後期などの縄文人は、山麓の傾斜面にまるで段々畑のように家屋を構築していた可能性が強まりました。  
 
 
 
 
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