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「野沢館」があった場所は、遊佐町野沢の東、野沢川支流 右岸の丘の上で、庄内平野や日本海を眺望できる高台に位置していました。落城は、塩越城(現・にかほ市象潟)が居城だった仁賀保氏に敗れた永禄10(1567)年と伝えられています。
「野沢館」の現在は、城の痕跡を探すのも難しいほどで、所々に石垣や土塁の跡が見える程度です。城跡の西隣には、「龍沢神社(龍沢宮、御嶽神社)」が建立されています。宮司は村人や町民に「タヨサマ」と慕われる野沢の佐藤氏だが、城主の末裔で、落城後、変名して野沢村に住みついたと言われています。
さて、今回は山城の「野沢館」や「龍沢神社(龍沢宮)」の話しではなく、この城跡や神社の東側横の深いV字に削られた渓谷(野沢川の枝流)の話しです。
最近では、この辺りも随分と整備され車の往来も可能だが、60年も前は、人里から離れた寂しい場所でした。白井新田が開墾されるまでは、この辺りが最深部だったと思われます。
直ぐ近くには「袋地」と呼ぶ集落もありますから間違いないと思います。
この深くV字に浸食された渓谷は、「龍沢(りゅうざわ)」と呼ばれ、大蛇が住む沢と聞かされ、子供達は近寄ることはありませんでした。当時の少年達は夏の時期は、野沢村周辺のあちらこちらの沢に、イワナや八目鰻などの「雑魚(ザコ)シメ」に出かけたものだが、この沢にだけは深入りしなかったものです。大人達には「龍沢には人を飲み込む大蛇が住み、龍沢神社の守り神だ」と教えられては恐ろしくて接近出来なかったのです。事実、青大 将などの大型の蛇が神社近くで良く見たもので、そして、人も飲み込むという大蛇の姿を想像したものでした。よって私も、橋の上や崖の上から見下ろしただけで、沢に入ったことがないので多くを語ることが出来ません。
今では想像ですが、鳥海山から岩野辺りを経由して、大雨などで直接流れ出た土砂や岩石がゴロゴロしているだけの味気ない渓谷と思っています。当時、「龍沢」には「舞台(訛って「ブデ」)」の村方面から木造の粗末な橋が架けてありますが、かなり水量が多いとき一度だけ渡ったことがあります。それほどの大雨ではなかったのに、濁流が岩野方面から滝のように落下する如く勢いで流れていました。川底では、石がゴロゴロ転がる音がしており、これが「龍沢」と呼ぶイメージかと思ったものです。
ところで、約10年前の2014年8月20日未明、広島県北部で土砂災害が発生し多数の死亡や行方不明者がでていました。そこの地名は「蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」と見るからに恐ろしい地名を付けられた土地でした。あらためて、地名に込めた先人達の警告・伝承を無視してはならないと再認識すへきと報道されていました。
野沢の「龍沢」の大蛇伝説に限らず、鶴岡市櫛引には蛇崩山や鶴岡市越沢字蛇喰、秋田県由利本荘市松本字蛇喰などの地名の場所は、いずれも土砂崩れの災害が発生した地域と思います。人間は、伝承や教えを無視して無理に自然と戦うのではなく、自然に対する畏敬の念を常に持ち続けて、山や森を大切にした自然との共生・共存が治山治水の政事の基本であろうと思っています。野沢の人々は「龍沢」のような教え・伝承を忘れないことを願っています。
付け加えますが、令和6年7月25日発生の大雨では、遊佐町でも河川の氾濫、土砂崩れ、 床下浸水などの被害が多発し、野沢でも、タヨサマの前からハジジョロの前辺りの護岸が決壊し通行できないと知りました。この辺りは、野沢川の本流と龍沢からの支流の合流地点であり、昔からよく氾濫する場所です。その後、半年以上も通行止めによる工事が続いていたと聞きますが、きっと、川底を深くする浚渫工事の他、簡単には破壊しない護岸になったものと期待しています。 |
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この場所は、日光川と荒瀬川が合流する刈屋辺り同様に良く氾濫する場所です。 |
〒999-8303 山形県飽海郡遊佐町野沢上ク子添 - Google マップ |
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2 野沢で採れたワラビが送られて来ました。 |
山菜には目がなく、季節によっては東京でも手に入る「タケノコ」「ワラビ」「タラの芽 」などには割高と分かっていても買い求めています。
たまに置いてあるのは、小平の「角上」や八王子の道の駅です。
幸い妻も同郷なので、あく抜き要領など調理の要領は知っています。
食べ方はいたってシンプルで、「おひたし」「天ぷら」「煮物」「味噌汁」などです。
両親が元気な頃は、私が好きなことを知っているので、主に野沢の山に出かけたり、季節外れのタケノコ採りは、ブルーラインをクルマで登って、雪渓が残っている五合目近くで採ったと自慢気に送って来たものです。最近では兄弟や親戚には、サクランボなどは東京でも手に入るからいらない。「山菜が道の駅あたりで手頃な値段で売っていたら、それをお中元代わりに送って欲しい。そっちの方がずっと有難い。」と頼んでいるほどです。
それが最近(2025.5.21)、野沢出身の私の同級生と妹が親しくしていると知り、妹に送り物をした際、その同級生にも些細な物を届けさせたところ、そのお礼に届いたのが、このワラビです。この一束は東京では500円くらいです。10束ありますから約5000円です。何か別に送り物をと考えているのですが、「そんなことするならもう送らない」と言われては困惑しています。
このワラビは、野沢の山に朝早くから四駆の軽四輪で出かけ、午前中だけで、この数倍を採って帰宅し、近所や親戚に分けているとの話しです。このワラビが届いた直後に、偶然、私が顧問を勤める会社の社長が自宅に立ち寄ったので、三束だけおすそ分けしています。この社長は富士山麓の富士宮市出身ですが山菜には目がなく、「この鮮度の良い山菜は簡単には手に入らない。」と羨ましがっていました。
社長が言うには、「これは一束1000円はする」と、随分と高値に値踏みしていました。 |
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3 城輪柵を襲った「出羽地震」の大津波 |
平安時代前期の貞観11年5月26日発生の巨大な貞観(じょうがん)地震は869年とされます。
その19年前には、酒田や遊佐界隈を襲った「出羽地震」も大規模な津波を伴った巨大地震で、海から直線で約4キロ内陸の城輪柵が破壊されました。遊佐辺りでも、20メートル超の巨大津波が起きていたことが地質の調査から判明しており、野沢辺りまで押し寄せた可能性があります。この項は、遊佐や野沢にあまり関係ないと指摘されそうですが、母親は本楯の城輪柵の真ん中の出身であり、この辺りは詳しい地域ですから勝手に紹介致します。
以下は、2010.11.3付けの読売新聞からの情報ですが、殆ど、そのまま引用しております。
「津波で幻 出羽の都市計画」
平安時代前期・9世紀の山形県で、碁盤目状の都市が計画されながら、地震による津波で断念された可能性が、酒田市の出羽国府跡「城輪柵跡」周辺の地名や発掘調査から浮かび上がってきた。(岡本公樹)東北地方では720年以降、蝦夷と中央政府が断続的に戦闘を繰り広げていたが、802年に征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷のリーダー阿弓流為を下し、安定期に入っていた。
太平洋側の陸奥国府・多賀城(宮城県多賀城市)では、「蝦夷との戦争中は万単位の兵士が駐屯する広い場所が必要なため、周辺に市街地を形成できなかった」(武田健市・同市文化財課副主幹)が、戦が終わり、碁盤目状の都市づくりが始まった。こうした区画を持つ古代都市は近畿地方を除くと、九州の大宰府、伊勢の斎宮など数か所にとどまる。日本海側では、出羽国府を兼ねた秋田城(秋田市)があったが、9世紀初め、新たな国府として城輪柵が創建されたとされる。1960年代からの発掘調査によって、約120メートル四方の政庁跡が見つかり、国府跡と判断されている。では、都市づくりはどう進んだのか。荒木志伸・明治大研究推進員は発掘データや地名の検証を行った。国府の南東では、1・5〜5キロ圈の遺跡で木簡や陶器が出土し、関連の役所が存在したことをうかがわせる。「大道東」「市条」など区割りを思わせる地名も残る。荒木さんは当時の都市の傾向を踏まえ、「中心施設の南側に碁盤目状の区画を広げようとしていたのではないか」と推測する。
ところが南側の土地の多くは最上川の河口に近く、海抜10メートル以下だった。
そこへ850年大地震が起こった。
「日本三代実録」によると、津波で最上川の川岸が崩壊し、海水が国府のそばまで迫った。この結果、南側に広がる都市計画は幻に終わった。役所群は北側に置かれ、住居群は5キロ以上も北の鳥海山のふもとへ移ったとみられる。「国主導の都市プランが頓挫したのと相前後して、内陸の立石寺(山寺)など、天台宗の大寺院ができてくる。その僧侶は一種の“国家公務員”として、災害復興事業を実行する役割を担っていたのかもしれない」と荒木さんは考えている。実は多賀城も869年、津波に襲われている。目抜き通りの南北大路と東西大路が交差し、豪壮な建物が並ぶ一等地が水没しとなり、数十年にわたり湿地帯となった様子が発掘調査で明らかになっている。ところが、被害の大きかった一角以外では碁盤目状の都市は維持され、むしろ発展していった。その理由の一つとして、「津波の時点ですでに相当な広さの都市ができていた」と多賀城市・武田副主幹は説明する。城輪柵は都市建設に着手したばかりの段階で壊滅的な被害を受けた。役所の機能は何とか維持したものの、一般の集落は定着しなかった。都市づくりと津波のタイミングが明暗を分けたと言えそうだ。(以上が読売新聞からです) |
■嘉祥三年(850)六月出羽地震とその津波について 14138htyo2.pdf |
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4 野沢が映画「必死剣鳥刺し」のロケ地になった |
遊佐町がロケ地になった映画としては、「おくりびと」の主人公の大悟(本木雅弘)が鳥海山をバックに月光川のほとりで、チェロを弾くシーンや大悟が妻の美香(広末涼子)に石文(いしぶみ)を渡すシーンなどが撮影されていました。他にも綾瀬はるか主演の「ICHI」(曽利文彦監督)では、鳥海山大物忌神社 吹浦口ノ宮で撮影されていたし、冨樫森監督の映画「おしん」では旧青山本邸がロケ地に選ばれていました。
このように庄内地方が映画のロケ地に選ばれるのは、2009年鶴岡市の山沿いに「庄内映画村オープンセット」が出来てからのようです。庄内映画村には、農村、漁村、宿場町などのオープンセットが準備されており、「おしんの家」もありました。一度だけ見学に訪問したことがあ りますが、鶴岡や近隣の町には映画のエキストラ要員もおられて出演を楽しみにしているそうです。参考ですが、最近(2025.5.25)は、北方謙三版の「水滸伝」撮影のため、農民、兵士、賊徒、町人役、女性が町人や町娘、村人役など100人を募集中のようです。
時代劇映画の撮影では、特に電線や鉄塔、舗装道路などが邪魔になり、東京や京都など栄えた都市界隈では、良いロケ地を見つけるのが難しいと聞きます。その点、庄内は近代的な建物や施設が比較的少ないことが幸いしているのかも知れません。本当は町全体をテーマにした映画やドラマ、アニメが理想ですが、すると方言を語る俳優や声優が少ないので難しいそうです。
短時間でも撮影場所になったのは、藤沢周平の短編小説「隠し剣」シリーズの一つ映画「必死剣鳥刺し」でした。平山秀幸監督がここを理想的な場所として、野沢の村外れの「十一面観音堂」の側を選んだようです。きっと、秘儀「鳥刺し」を彷彿させる小鳥を捕まえる場面を披露する場所としてイメージが合致したハズです。野沢村のロケ候補地としては、野沢公園、御嶽神社(龍澤宮)境内、ハチジョロの庭園などがありますが、受け入れは大丈夫でしょうか。 |
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【お問合せ先】株式会社トループ(エキストラ担当)
「水滸伝」エキストラ事務局
suikoden.extra@gmail.com(受信許可設定の確認をお願い致します。)
※お問合せはメールのみで受け付けております。とあります。 |
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〒999-8303 山形県飽海郡遊佐町野沢上ク子添 - Google マップ |
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5 相孕み(あいはらみ)の話を御存じですか |
「相孕み(あいはらみ)」とは、一つ屋根の下に二人以上の妊婦のいることです。そして、その妊婦が同じ家で子供を産むと、片方が死産となったり、病弱になるからと忌み嫌う話です。
こんなことは全くの迷信ですが、民俗学では研究題材になっています。この迷信は、人と牛や馬などの家畜の場合にもあると言われています。
さて、私の祖母・鉄江は、丑太郎と金代の長女ですが、日露戦争が終わった翌年の明治38年(1905年)4月18日、本家の「マジスケ」から約100メートル離れた家号「エジ ベ(市兵)」で誕生しています。「えぢべ」とは遠縁ですが、どのような関係か正確には知りません。
まず、野沢村では渋谷卯吉(家号「うげじ」)が渋谷姓の中では最も古い家であり、その最初の分家が「トミスケ」や「エジベ」で、更に「トミスケ」の分家が「マジスケ」のようです。この辺りの親族関係は、父・惣作から聞いた話が主ですから、間違っていましたら教えて下さい。いずれにしても、野沢村には渋谷姓は20数軒もありますが、全戸の戸籍謄本を調べたらハッキリすると思います。
繰り返しますが、祖母・鉄江を他家で産ませた理由は、前述したように「同じ家に妊婦が二人いたら、どちらかが死産や病弱になるから」という迷信話しです。
当時、本家「マジスケ」では、私から見て曾祖父母の丑太郎・金代夫婦は、金代の兄夫婦(惣市郎・虎代)と同居しており、その長男が惣太郎で祖母鉄江とは従兄弟であり同じ歳です。
本家マジスケの惣太郎ジチャは、早朝の田圃の様子を見に行く田回りの後に、必ずのように我が家に立ち寄って、雑談しながら一服しており、晩年まで親しくしていました。
なお、鉄江が誕生してからも、丑太郎・金代夫婦は本家「松之助(マジスケ)で同居生活を継続するのですが、鉄江は祖父の「惣之助」にとても可愛がられたそうです。ところが、これが兄嫁の嫉妬を買い分家の話に発展しています。当初は、本家「マジスケ」の屋敷西側に小屋程度の離れ家を建てて、丑太郎・金代夫婦と長女・鉄江(当時3歳)の生活がはじまります。
そこでも、次女・豊美、三女・きのゑが誕生するのですが、本家「マジスケ」でも、金代の兄である惣市郎・虎代夫婦にも、長男・惣太郎、次男・惣三郎、三男・惣治郎の他に、金代の妹の継(下当のブンジロに嫁ぐ)、次女隅江(野沢のチョゲジに嫁ぐ)、三女清江(岩野のウハヂに嫁ぐ)、弟の「正一」、「正吉」らが暮らしている訳ですから、正に大家族です。
この項は、関係ない方々には全く面白くない話と思いますが、日本人が家制度を大切にして来た考え方や、親族を大切にして来た歴史が見えてきます。 |
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6 野沢の人口や世帯数の考察 |
東京の我が家に二人目の子供が誕生した当時、両親が訪問した際、「物干しに子供の着物が干してある家を見ると“ほっと”する。」と語ったことを思い出しています。なかなか良いこと言うなと思い、その後、仕事などで良く知らない街を訪問した際のチェックポイントに入れています。
勿論、他にも住宅街や遊び場などの子供の様子、商店の賑わい、行き交 うクルマや人の動きも含むことは当然です。
右の表は、令和3年調査の遊佐町集落別人口調査から、野沢集落の野沢上、野沢中、野沢下の切抜きです。これからすると、野沢村の人口は389人(男200人、女189人)、世帯数は133世帯です。この調査は4年前ですから、令和7年5月末現在では確実に数十名減少しているバズです。私が知る50年以上前の野沢村は、村全体で1000人を超す勢いのあった頃です。現在も殆ど変化していないのは、村全体の外観であり、世帯数の133です。
しかし、今後は空き家数は益々増えて、その空き家には野鳥や動物が出入りして、更にツタ類の植物が絡みつくことで、朽ち果てる速度が加速度的に早まると予測されています。
これは何も野沢村や遊佐町だけの話ではありません。
日本の人口の推移を長期的に見ると、明治時代後半の1900年頃から100年をかけて増えてきた我が国の人口が、今後100年のうちに再び元に戻ると予測され、我が国は、かつてない水準の人口減少を経験することになります。何も野沢や遊佐町だけではないことを重ねて指摘しておきます。
そして、急速な人口減少問題、過疎化問題、空き家問題、墓じまい問題、火葬場不足、労働者不足、消費激減、輸血用血液不足、後継者不足問題などは、全て横並びの問題と思われ、今の制度や風潮、考え方では打つ手がなく結局行き着くところまで行きそうです。そして焼け石に水の対策より、確実に到来する人口減少によるメリットもあります。それは、「ウサギ小屋の解消」、「渋滞の緩和」、「余計な公共施設の削減」、「自然の復活」、「24時間営業の廃止」なども期待されます。よって、この人口減少に合わせた「コンパクトな街つくり」を目指すなど、今から対策を練っておく以外にないのではありませんか。 |
人口・世帯数等の推移 | 遊佐町公式サイト |
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https://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h24/hakusho/h25/html/n1111000.html |
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7 「野沢川」と「地抜川」が、令和7年5月23日二級河川に指定 |
遊佐町野沢村を流れる「野沢川」と「地抜川」が最近(令和7年5月23日)、ようやく「二級河川」に指定されました。山形県を流れる「一級河川」は最上川だけのはずです。
「一級河川」と「二級河川」の違いは、河川法で定められている名称であり、国土交通大臣が指定した河川を「一級河川」、都道府県知事が指定した河川を「二級河川」といいます。一級、二級と定める基準は、洪水などで住民の生活に特に大きな影響を及ぼすことが想定され、国家的に管理すべきものを「一級河川」、それ以外の河川で、都道府県知事が管理すべきと判断したものを「二級河川」と定めています。
今回、「野沢川」と「地抜川」が「二級河川」に指定されたキッカケは、昨年7月の大雨による被害からと思います。昨年令和6年7月25日発生の大雨では、遊佐町でも河川の氾濫、土砂崩れ、 床下浸水などの被害が多発し、野沢村でも、タヨサマの前辺りからハジジョロの前辺りまで道路の上まで川が溢れ、一部護岸が決壊し、長期間通行できないと知りました。この辺りは、野沢川の本流と龍沢からの支流の合流地点であり、昔からよく氾濫する場所です。その後、半年以上も通行止めによる工事が続いていたと聞きますが、きっと、川底を深くする浚渫工事の他、簡単には破壊しない護岸になったものと期待しています。
今回、「二級河川」に指定されたことで、補修工事や平素の点検も県が責任を持つことになりますから、護岸工事や浚渫工事もより強化されることを願っております。 |
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8 「もんぺはげ」は弁慶が滑り落ちた跡か? |
現在の遊佐中学校前の道路を杉沢方向に向かうと、右手に現在は使われていない「隧道」の跡があります。その手前100メートル辺りの右手(南側)に「もんぺはげ」と呼ぶ地点がありました。 下段の略図では、ハッキリしませんので概ねの地点に「もんぺはげ」と記載しておきます。
60年前は、その辺りの山の斜面は土砂崩れの痕跡がハッキリ残っていたので、この辺りの住民は誰でも知っていました。「モンペはげ」と呼ばれたのは、土砂崩れの痕跡ががモンペ(すててこ)を逆さにしたような形で、上が左右に分かれて斜面がはがれて赤土が露出していたからでした。
小学校に上がる前の5歳くらいのとき、杉沢に民俗芸能「杉沢比山」を見にいった際に、この辺りを歩いていたときに、祖母からは「弁慶が滑り降りたときの跡だ。」と教えられましたが、そのときから眉唾と思っていました。斜面の赤土が露出していた広さは、横幅30メートル、縦に約100メートルだったと記憶しています。
後に、野沢断層がこの付近を走っていることを知ったとき、きっと明治27年(1894年)発生の「庄内地震」の影響で、山の北側斜面の地盤が弱いところが崩れ落ちたと推測したものです。
「庄内地震」は明治27年(1894年)10月22日に起きた大地震ですが、震源は庄内平野北部とされ、庄内地方全体で死者726人、全壊3858棟、全焼2148棟という大惨事でしたから、近年、庄内地方を襲った地震では最大規模の被害でした。「もんぺはげ」の痕跡がハッキリ残っていたのは1960年ころの話ですから、仮に「庄内地震」発生時の土砂崩れ跡なら、その66年前の出来事になります。繰り返しますが、土砂崩れは昨年(2024年)7月発生の線状降水帯発生のような豪雨が原因の場合もありますから、なにも「庄内地震」が原因と断言している訳ではありません。 |
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下段の写真は、月光川の「もんぺはげ」前の河原で行なわれた、近所の子供や母親による芋煮会の様子です。後方が隧道がある崖で、「モンペハゲ」は右上ですが良く写っていないようです。左端の母・百千のほかデハジやヨハジロ、トミスケの母ちゃんも、皆さん若かった。中央の鉄鍋は、小学校2年の私が担いで持って行きました。(昭和33年) |
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9 野沢村に同級生は38人いました。 |
遊佐町の野沢は概ね130軒くらいの村で、遊佐町では比較的大きな村と思います。
村の位置は、白井新田が開墾されて集落が形成されるまでは、庄内平野の北端に位置しているような辺鄙な場所です。戦後間もない当時は全世帯が農業に関係しておられたとみられ、一部、大工、左官屋、桶屋などの兼業農家がありましたが、いわゆる勤め人は皆無のように見えました。そのうち町役場の臨時職員に採用されて、町長や議長の運転手を担当した方がいましたが、その母親は我が家に来て「大学まで出したのに、やっと臨時職員だ。それも運転手だ。」と嘆いていました。
それでも、ネクタイを締めて自転車で町役場に出勤する姿は颯爽としていました。
これは私が小学校3〜4年生ころに見聞きした話です。
私はいわゆる団塊の世代(昭和22年〜25年)生まれで、この村だけでも同級生が38名もいて「野沢だけで一クラス出来る」と言われたものです。これだけいると遊び相手だけは困らないもので、あちらこちらの家まで出かけては遊び回ったものです。遊ぶ内容は年齢が高くなるに連れて 変化するものの、かくれんぼ、ペッチ、ガラス玉、雑魚しめ、冬には、そり、スキー、雪投げ等々、多種多様ながら他愛無いものばかりです。
遊び場は殆どが屋外で、家の中では将棋くらいでしたから、駒の動かし方は小学校低学年には覚えていました。塾に通ったり、習い事をしていた人、がり勉は誰も居なかったと思います。
この同級生たちも、今年の3月で全員が後期高齢者になっています。ただ、これを待たずに亡くなった同級生も、ひろお、えつお、とくお、つとむ、ただかずらと全員が男ばかりですから、寂しいものです。
厚生労働省による2023(令和5)年の調査では、日本人の平均寿命は男性が81.09歳、女性が87.14歳です。この平均寿命を伸ばす側になるか、減らす側になるかは、今の健康状態や平素からの健康維持に対する関心、いわゆる生活習慣が左右すると言われています。誰でも思うのは「ピンピンコロリ」ですから、寿命のその日まで元気に暮らしたいものです。なお、臨時職員で採用された方は5年位で本採用されていましたが、60歳位の若さで亡くなっています。 |
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10. 野沢村の範囲は意外と広い。 |
野沢村の範囲が意外と広いと知ったのは、50年くらい前でした。知った キッカケは、野沢村の北側の鳥海山麓で大手デペロッパー(Developer)からゴルフ場やスキー場の開発の話しが持ち上がったことからでした。
父親の惣作からこの話を聞いた当時は、高度経済成長期の余韻も強く残っていた時代でした。大規模な宅地造成やリゾート開発を得意とする不動産開発業者が、ゴルフ場、スキー場、ホテル事業などをセットにした開発の打診があったそうです。父親には、「一見、聞こえの良い話しだが、ゴルフ場は芝の管理などで、強い除草剤を大量に使うから、下流地域の田畑や湧き水は必ず被害を受ける覚悟があるかだ。」とアドバイスしています。
この助言を生かしたのかは不明ですが、この不動産開発業者は開発は諦めたようです。
ところが、その後、この地域で大規模な養豚場が出来て、その汚水被害は酷いものだと告げられました。この養豚場も数年前に火災によって、約500頭の豚が全滅したと知りました。
このような飛び地は、大抵の場合は村の水源だったり、里山として薪の補給地として確保したことが考えられます。中ほどの東から大きく削られたような所は、幕末から明治にかけて白井新田開発で提供した地域でしょう。似たように広大な里山を保有している村は、遊佐町では杉沢、吉出、当山などがあります。それを一時的な欲で売却したり、産業廃棄物物を廃棄しては批判されるのは当然であり、「山の神の怒りに触れる」結果になる事は火を見るより明かです。
最近問題になっている「胴腹の滝」上流の吉出地区臂曲(ひじまがり)地域の砕石計画問題でも、きっと誰かが後先を考えず、欲に目がくらんで売りさばいた土地でしょう。これには、遊佐町の松永裕美町長も「規制対象事業」と認定したと報じていますから、一安心しています。
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