入隊そして出征
当時の著者(20歳) 入隊直前の著者と兄弟姉妹
 
  大正11年7月23日生まれの私は、昭和17年7月で二十歳(はたち)の誕生日を迎えた。 

 当時私は、15歳から大工職の弟子として、札幌の大工棟梁の伯父方(母の妹きのゑの嫁ぎ先、夫・佐藤甚太郎)宅で修行中であったが、一旦、郷里の山形県飽海郡遊佐町野沢に帰省し、徴兵検査にも甲種合格し、入隊の日を待っていた。
 庄内平野の北端に位置する野沢村(野沢公園から撮影)
遠方は日本海です。
 
 この当時、徴兵期間は20歳から約2年間で、日本国男子として生を受けた者の義務として誰もが、その任期を全うすることを当然と受け止め、誇りとしていた。又、この兵役を終えて始めて一人前の男として認められるような風潮が、国民の間に定着していた。

 昭和16年12月8日、真珠湾奇襲によって勃発した、大東亜戦争(太平洋戦争)に対する当時の国民の認識は甘く、私が入隊する頃の新聞等で伝えられる戦況は、勝利に継ぐ勝利であり、押せ押せの必勝ムードであった。
 後に、戦況が不利に転じたと言われる昭和17年6月のミッドウエー海戦を始め、昭和17年8月にはじまるガタルカナル島戦等、南方各地の日本軍の戦いも、新聞やラジオでは、「敵に甚大な損害を与えた」などと伝え、神国日本の勝利は間違いなく、今年中にも米軍は降伏するであろうと楽観視していた。

 当時の国民には、正確な情報、厳しい戦況は全く伝えられていなかったのだ。  
 
 私の周囲の戦争に対する感覚も、「戦地に行くことはいい経験になる。お国のために手柄を立てて来い。」等と、軽い感覚で日常の話題にしていた。その根底には、「日本は絶対に負けることはない」という潜在意識があったからと思う。

 我々の世代は、そのような教育を受けて育っていた。 

 入隊する時も、家族からは「初年兵が直ぐに戦地に行くことはないだろう」等と言われ、私もちょっと出かける程度の、軽い気持ちで実家を出発した。

 野沢の村はずれ(現在・バス停付近)では、家族をはじめ親戚一同や村人面々の歓送行事が催され、「お国のために頑張って参ります。」などと慣れない挨拶をさせられ、遊佐駅まで単独で歩いて向かった。

 1942年、昭和17年11月30日のことであった。
野沢村
遊佐駅
遊佐駅
 
盛岡工兵隊
 岩手県盛岡市に所在する「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、我々初年兵250名が入隊したのは、昭和17年12月1日朝8時であった。

 薄暗くどんよりとした空に、冬の北風が冷たく頬をよぎった。早速、皺だらけの軍服に硬い軍靴を支給され、格好だけは陸軍軍人に仕上げられた。

 戦地・北支から派遣された教官は、高八掛
(たかはっけ)少尉、藤原准尉、菅野軍曹、近藤軍曹の4名であった。

 まず教官を囲んで記念写真を撮り終えると、これからの軍隊生活の注意・指示を受けた後、営庭や練兵場、内務班等に案内された。

お客さん扱いはその日だけであった。

 翌日からは、軍人勅諭の座学、軍事教練や敬礼の仕方、掃除、洗濯、食事当番など、朝から寝るまで目の回る忙しい日が続いた。

 初年兵の中には、秋田県出身の相撲力士十両の「清風」という人もいた(後に二ユーギニアで戦死)。

 日清戦争が終わって間もなく、明治29年(1896)政府は富国強兵策にのっとり、従来の8個師団のほか4個師団を増強することとなり、盛岡は第8師団管下となった。
 これを皮切りに、明治
41年(19086月には弘前第8師団第8大隊が弘前から盛岡市厨川に移された。同42年には騎兵第3旅団が新設されるなど、盛岡は軍都としての面目を備えてきた。
 工兵隊は盛岡市郊外の下厨川茨島(ばらじま)に、騎兵隊は厨川(現、青山町厨川中学校付近一帯)に設営され、休日となると、そこから外出する約
3千人の兵隊達で市内は活気を呈した。
 
 あっという間に一週間が過ぎた夕方の点呼で、「明日、正午戦地に発つ、全員、今夜中に準備するように」と教官から命令を受けたのである。このにわかの命令に皆、言葉にならない忙しさで出発の準備を開始した。
 消灯まで出来ない者には初めて教官のビンタが飛んだ。

 わずか一週間の訓練で、戦地に向かう戦友の面相は語るに語れないものがあった。誰もが家族との面会は勿論、手紙を書く余裕もなく、盛岡駅から臨時列車で出発した。

 車窓に映る街並みもいつしか東京、大阪、広島と過ぎ去り、一路、北九州・下関を目指しているが、車内の兵士は皆口数が少ない。
 胸に去来するのは両親や兄弟か、それとも好きな人のことか。
 心細さと不安だけの二十歳の旅立ちであった。
       
盛岡工兵隊 初年兵
盛岡工兵隊で撮影
 同期や教官との合同写真
(盛岡にて)
 名前の分かる方は数名です。拡大表示に時間がかかります。
 列車は二昼夜かけて下関に到着し、その日の夜には下関港から出航する。たいして大きくもない船に押し込められ、皆座ることも出来ない。前の者は、後の者の膝に座るなど折り重なるように押し込まれ、5〜6時間も波に揺られて朝鮮半島南端の釜山港に着いた。更に、休む暇もなく列車に乗り込むと、教官達は、「ここはもう戦場だ。」と態度を一変させ、我々初年兵に緊張感を与えた。

 列車の中は軍隊生活一色となり、教範を勉強したり、言葉も軍隊語となった。
 教官達も何が気に入らないのか、遠慮なくビンタが飛んだ。
 そして、いつしか列車は、満州に入いり、更に三韓を越えて北支に入り、山西省太原を過ぎ、心縣、楡次を経由し、路安の柴防村に駐屯した。

 野戦であり、どこへ行っても宿舎はテント張りであった。
1 まえがき 3 北支から南方へ
近年の野沢村、渡り鳥の白鳥が、収穫を終えた田んぼに落穂を求めて飛来しています。 
 
 ※ 後に判明した「ビアク島守備隊」。一兵卒の私らには詳細は一切知らされていなかった。
 
陸軍平時編制
  通称号(つうしょうごう)は、大日本帝国陸軍に於いて部隊の名称を秘匿する為に用いられた暗号名の一種です。
  師団・独立混成旅団以上の独立した作戦能力を持つ部隊に夫々固有の漢字一字或いは二字からなる符号を付け、その隷下部隊に番号を振って区別したものです。漢字の符号を「兵団文字符」と言い、個別の番号を「通称番号」と言い、両者を合わせたものが「通称号」だそうです。

 著者は盛岡工兵隊「北部第21部隊」に入隊したと証言していますが、下記表によると「工兵第57連隊」となっています。しかし、入隊した「北部第21部隊」が「工兵第57連隊」なのかは不明です。推測ですが、一箇所から幾つも連隊(部隊)が編成され、そのたびに部隊名が違っても、編成地が同じ場合は、同じ通称号を呼称しているように思えます。
 よって、昭和14年、弘前編成の
歩兵第222連隊・223連隊・224連隊は、歩兵第57連隊の後に編成されており、この解釈からすると全て「北部第16部隊」ということになります。もし、間違えていましたら、是非、教えていただきたいと思います。
陸軍編成表
 
1 まえがき 3 北支から南方へ
TOPへ