岩手県盛岡市に所在する「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、我々初年兵250名が入隊したのは、昭和17年12月1日朝8時であった。
薄暗くどんよりとした空に、冬の北風が冷たく頬をよぎった。早速、皺だらけの軍服に硬い軍靴を支給され、格好だけは陸軍軍人に仕上げられた。
戦地・北支から派遣された教官は、高八掛(たかはっけ)少尉、藤原准尉、菅野軍曹、近藤軍曹の4名であった。
まず教官を囲んで記念写真を撮り終えると、これからの軍隊生活の注意・指示を受けた後、営庭や練兵場、内務班等に案内された。
お客さん扱いはその日だけであった。
翌日からは、軍人勅諭の座学、軍事教練や敬礼の仕方、掃除、洗濯、食事当番など、朝から寝るまで目の回る忙しい日が続いた。
初年兵の中には、秋田県出身の相撲力士十両の「清風」という人もいた(後に二ユーギニアで戦死)。
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日清戦争が終わって間もなく、明治29年(1896)政府は富国強兵策にのっとり、従来の8個師団のほか4個師団を増強することとなり、盛岡は第8師団管下となった。 これを皮切りに、明治41年(1908)6月には弘前第8師団第8大隊が弘前から盛岡市厨川に移された。同42年には騎兵第3旅団が新設されるなど、盛岡は軍都としての面目を備えてきた。 工兵隊は盛岡市郊外の下厨川茨島(ばらじま)に、騎兵隊は厨川(現、青山町厨川中学校付近一帯)に設営され、休日となると、そこから外出する約3千人の兵隊達で市内は活気を呈した。 |