野沢村の話題 13話
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1 祖母と「マムシ」を捕まえた話〜危険です。絶対マネしないで下さい。
2 野沢の「奥都城(おくつき)」のこと〜神道の墓のことです。
3 「惣作」の惣は名前には重いものがあります。〜「惣」は、「総」と同じ意味です。
4 母親は「女子勤労挺身隊」だった。〜遊佐や酒田辺りでは数人です。
5 岩野のババチャが熊と戦かった話 〜コマザレ(熊手)のことです。
6 丑太郎やマジスケの惣太郎、ウゲジ(卯吉)のジチャ達は白井新田開発に従事した
7 高瀬村村長と遊佐村村会議員が作ったマジスケエモジ「丑家」〜長男を婿にした強引な手法でした
8 「こもじ布団」の思い出 〜安眠できた懐かしい布団です。
9 可愛がって育てたウサギが家族に食べられた話 〜小学校1年生にとっては、ひどい話でした。
10 知らずに絶滅危惧種を食べた話(アユカケは美味かった)
11 惣作が「結婚相談員」をしていた当時の話 〜惣作は49組まとめたと語っていました。
12 遊佐町減少問題に対する考察 〜遊佐町だけの問題ではありません。
13 
「遊佐町史」上下巻を購入しています
 〜それぞれ5.000円です。一家に一冊備えて欲しいものです。、
  これらの話題は、遊佐町野沢で生活していた当時の体験や、祖先や両親、親戚等に関連した話しばかりです。個人情報も含まれていますが、批判したり悪い情報を配信する予定は全くありません。それに皆さん連絡が付く方ばかりですから直ぐ対応出来ます。願わくば、これらの情報から、ご自分の家のことや村や町のことを勉強する切っ掛けにして欲しいものです。なお、野沢に関すること限定で、悪口や商売以外でしたら、無料で掲載します。まず、祭礼などの行事、野沢の風景写真、米不足問題などに現場からの提言などが理想と思います。
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 祖母と「マムシ」を捕まえた
 近年、あちらこちらで熊の出没で困っているようですが、これは、人間が動物の領域とされる、特にブナ林を必要以上伐採し続けた結果であり、人間のエゴのなせる業と思っています。最近、報道された鳥海山麓の砕石やブナ林の破壊など飛んでもない話です。必ず因果応報、山の神の祟りがあると見ています。ところで、人里に降りてきた熊の殆どは殺処分というが、熊の胆(い)は取り出しているのだろうか。それとも、熊の胆は冬眠明けが最高とされるるから廃棄するのだろうか。「熊の胆一匁(もんめ)は金一匁」と言われ、乾燥させた熊の胆は、金と同じ値で取引されるという。
 さて、今回は「熊の胆」ではなく、「マムシの胆(きも)」や捕まえ方の話です。
 マムシの胆も、「熊の胆」同様の価値があるとされます。 
 小生が小学校3・4年ころの、昭和35年ころの昔話を紹介したい。
 当時、祖母・鉄江は52〜3歳くらいですが、低血圧で貧血ぎみの人でした。
 ある日、小学校から帰えると、いきなり「コウエンチ(野沢の公園)さマムシ捕まえに行くぞ」と声を掛けられたのです。マムシの恐ろしさは子供でも知っていて、万が一噛まれたら2時間以内に血清を打てば大丈夫、血清は遊佐病院に常に準備してあると教わっていました。
 こんなことを今更説明しても、拒否出来る状況ではありません。
 既に、いろいろ準備しており私が帰宅するのを待ち構えていたようでした。
 祖母の連れ合いの祖父・惣之吉は、小生が誕生する前年に死亡しており、祖母・鉄江の寂しさの紛らわしで、私は幼少時からあちらこちらに連れ回された記憶があります。因みに、小生は幼稚園には行っておらず、それに小学校前は汽車賃もタダだったのでカネがかからず便利だったのであろう。
 周りからも、「ジチャ(祖父・惣之吉)の生まれ代わりだのぉ」などと良く言われながら育ったものです。50歳くらいになると、惣作の妹の京子叔母さんから「おめは、おれだの父親の惣之吉に良く似て来たの」と言われ、父・惣作に似ているよりいいかと思ったものです。
 話を戻すと、既にマムシ捕りの七つ道具は玄関先に準備してあった。
 藁で編んだ「てんご」には、軍手、小刀、マッチ、新聞紙に包まれた馬の蹄、水が入った一升瓶が入れてあり、更に先端がYの字になった1メートル程の棒二本も準備してあった。家からコウエンチ(野沢の公園)まで約1.5キロも歩くと、いかにもマムシがいそうな湿地の多い場所があります。

 ※右の写真は野沢公園の沼沿いですが、ガードレール設置や舗装により昔の印象は全くありません。


 気の強い祖母だったが、さすがに女一人で行くのは怖かったのだろう。適当な場所に陣取ると、杉の枯れ葉や小枝を集めて、新聞紙を丸めてマッチで火をつけたき火を始めたのです。そして、程よく燃えると、火の中の馬の蹄をくべる。
 馬の蹄が焦げると香ばしい香りに釣られて、マムシが寄って来るのだという。このことは、どこで聞いたのか覚えたのか知らないが、未だ真偽のほどは分からない。
 馬の爪が燻されて香りが周囲に漂い始めると緊張して来る。
 祖母・鉄江も「いいカン(匂い)して来たぞ、来っぞ!来っぞ!」と身を構えている。
 二人で先端がYの字の棒きれを持ち、キョロキョロしながら辺りを見回す姿は今思い出しても滑稽だ。
 そんなことをして5分くらいも経ったら、本当に毒蛇特有の頭が三角のマムシが5メートルほど先に現れた。
 「来た」と小声を掛けると、「棒で首を押さえろ」と言われる。
 その程度の要領は子供でも分かっていたが、いざマムシに向かうとなると躊躇する。
 2〜3メートル離れて数秒睨み合っていると、また「頭押さえろ」と指示される。
 自分でやらないで、孫の子供にやらせるのだから勝ってなものだ。
 仕方なしに歩を進め棒の先端がYの部分で押さえる。意外と簡単に捕まえることが出来た。
 マムシは頭を押さえられると、胴体を棒にぐるぐる巻きになってきた。
 これを見た祖母は、すかさず頭部分を長靴で踏み付け小刀で頭部分を切り落とした。
 「マムシも頭が無ければこわぐねぇ」などと言うが、マムシは頭を落とされても元気がいい。
 棒を離すと今度は祖母の出番だ。
 祖母はマムシの胴辺りを手袋した手で握ると、その胴は手首にグルグル巻き付いていましたが、気にせずに胴の腹に小刀を入れ、ウナギの腹を広げる要領で切り裂いていました。
 まず、黒っぽい小指の先程度の胆嚢を切り取る。
 次に皮をはぐのだが、頭方向から尾に向かって引き落とすときれいに剥け、薄いピンク色の身だけの哀れな姿になっていました。
 「引っ張れ」と言うので、二人で綱引きするように皮のほうを引っ張った。
 この薄いピンク色身を竹串にS字に刺すが、マムシの生命力の凄さはここから発揮する。
 何と竹串に刺されても身をくねさせている。
 この日はもう一匹捕まえた。
 これは、水が入った一升瓶に頭から入れた。
 暫く水の中に入れたままにして排泄物を出させた後、マムシ酒にするのだという。
 竹串に刺したマムシは小生が手に持って帰宅し、直ぐ囲炉裏で焼き始めた。
 何と、息絶えたとばかり思っていたマムシが、火の熱さでまたグニョグニョ動き出した。
 この生命力には恐れ行ったものだ。
 このマムシ焼きは、父・惣作の晩酌のつまみに出すという。
 父親はニューギニア・ビアク島からの帰還兵で、ジャングルを単独で半年も彷徨っていたのだが、その当時の主食は蛇やトカゲだったというから怖ろしい。
 父親が帰宅すると、囲炉裏でほど良く焼けたマムシを見つけ舌鼓を打っている。
 まず、身を柔らかくするために、スリコギで叩いて食べやすくしている。
 「お前も食え」と切り身を一切れ渡された。
 このときが、はじめてマムシを食べたと記憶している。
 醤油を少々付けて食したが決して美味いものではない。
 今なら、きっとマヨネーズだろう。
 マムシ酒を作る要領も見ていたが、この話はまたの機会にする。
 マムシの胆(きも)は祖母が数日乾燥させて、漢方薬として大切そうに煎じて飲んでいた。
 なお、「まむしの胆」は肝臓ではなく胆嚢だ。
 「蝮蛇胆(ふくだたん)」ともいい、熊胆(ゆうたん)」と並び珍重されている。
 マムシ捕りは、その後も数回は連れていかれた。
 いい経験になったとしか言いようがないが、他の人に奨めているわけではない。
 この蛇にまつわる話は、後日談がある。
 上京し間もない19歳のころ、文京区本駒込の富士神社の祭礼に「蛇娘」の見世物小屋が出たが、覗いて見ると、この蛇娘は祖母がマムシを処理するときの姿と同じだった。
 これを見た直後に帰省した際、祖母たちに「ババチャはいつでも蛇娘が出来ると思う」と語ると、「蛇ババァの話は聞いたことがない」と笑っていた。そして、結婚後、この話を思い出し父や母親と話していると、これを聞いていた妻が「凄い親子!!」と呆れていた。
 そして「結婚前、この話を聞いていたら結婚しなかった」というから正直だ。
 
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 野沢の奥都城(おくつき)のこと(奥都城」とは墓のこと)
  野沢村北西の墓地に行きますと入って直ぐ右方向に「奥都城」と彫られた立派な墓石があります。
 一見、「奥都城」の城主か関係者の墓かと勘違いしそうですが、この墓は、きっと佐藤家“タヨサマ”のお墓と思います。他の墓にもあるのかは、一つ一つを確認はしていませんが殆ど無いはずです。
 間違いないことは神道の斎家(さいか)で、仏教の檀家(だんか)が「○○家之墓」と表記するのと同じ意味ですと、母の葬儀を執り行って頂いた酒田の日枝神社の岡部信彦宮司に教えてもらいました。 更に、奥都城(おくつき)」のことを辞書で調べると、「奥深い所にあって、外部から遮られた境域」とあります。つまり、村落から奥深い所の「柩を置く場所」を呼んでいたようです。野沢の墓地は比較的村落に近接していますが、山の方向に死者を埋葬して「いずれ霊は山に登って神になる(ハヤマ信仰)」というハヤマ信仰(葉山信仰・麓山信仰・端山信仰などと言う)からして理想の方角だったのでしょう。
 ところで、分家の丑家や本家の「松之助」は、元々は仏教(曹洞宗・開祖道元)の檀家でした。その証拠に、祖父の惣之吉、曽祖父・丑太郎、曽祖母・金代の葬儀は仏式でしたから、右の戒名が残っています。野沢の寺・安養寺は曹洞宗であり、キリシタンではないことを寺院に証明させる檀家制度(寺請制度)の延長の慣習の中では、ごく自然な流れだったと見られます。
 なお、曽祖父の丑太郎は新潟県北部の中浜の三男として明治14年生まれなのに、14歳で愛知県尾張旭市霞ケ丘町292の「天理教名古屋大教会」近藤嘉七初代会長(新潟出身)の養子になっているほどです。親から言われて仕方なく養子になったと思われますが、それでも当然ながら、少年・丑太郎は天理教の信者として本格的な修行に入り、教義など色々と学んだはずです。
 幕末から明治期には、新興宗教の天理教は飛ぶ鳥を落とす勢いで、信者数が延びていた時代の話しです。しかし、名古屋に養子になって約7年後、事情は不明なるも明治34年の21歳で郷里に戻ると直ぐにも遊佐郷に入っています。そして、遊佐郷では天理教信者としての動きは全く見せなかったのに、丑太郎の妻・金代が38歳ころ、関節リウマチに罹ると、再び信仰の動きを見せ始めたのでした。それは、祖母・鉄江が15歳ころであり、「親子で信者になった」と、金代の妹で下当の「ブンジロ」に嫁いだ「継」や岩野に嫁いだ「清恵」らからの証言を惣作は記録しています。
 医学が未発達の明治から大正期、不治の病に見えたリウマチ治療を信仰に頼ったことは理解できる話しです。それに天理教では「人間の身体は神様からの借りもの。心一つが我がのもの」」と教えており、病気の原因で「心のほこり、身に障り付く」と教えられたことを、38歳ころ丑太郎は思い出したはずです。いずれにしても我が家が“神道”に改宗したのは約40年前です。
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 「惣作」の「惣」は名前には重いものがあります。
  父・惣作の「惣」の文字は、私には、何度も目に留まる文字ですが、この漢字を名前を持つ人は、居そうで本当は少ないと思っています。私も、これまで仕事で様々の名簿や名前を確認することがありましたが、実際は少ないはずです。
 ところが、我が家や本家の家系図を調べますと、「惣作」の他に、祖父は「惣之吉」、高祖父は「惣之助」、「惣市郎」「惣太郎」「惣治郎」等々と多く居られます。この「惣」の文字は、「」とほぼ同じような意味があって、昔から「惣代」は本家筋の家長を言い、後継ぎの息子を「惣領」と呼んでいます。つまり、大農家の本家・松之助(マジスケ)や大庄屋で惣代名主(そうだいみょうしゅ)の下当の士族・佐藤惣左エ門(そんぜん)のような、歴史と存在感がある家には似合うと思うのですが、分家の身で使うのは無理があると思っています。
 父・惣作は、小生の子供たちにも「この“”の文字を使って欲しい」と語るときがありましたが、「苗字の渋谷と“”の文字は姓名判断では画数に合わない」と、屁理屈を付けて断っています。
 それに、それを期待するなら、小生にナゼ「」の文字を使わなかったのかです。
 もし使われていたなら、それに相応しい生き方や結果を出したかも知れません。
 しかし、一度は子供の名には実際は検討していまして、惣一、惣太、惣治、惣子(ふさこ、のぶこ)、惣美(ふさみ)等々を考えたのですが、余りにも限定的で広がりが無く文字の扱いが難しかったのです。
 それに、この字は“国字(和製漢字)”であり、地名や魚、外来語には多いのですが人名には向いてないと思っています。漢字は主に中国から伝来ですが、“国字”は日本で新しく作られた和製漢字なので訓読み(大和言葉、日本語の固有語)が殆どです。
 何も“”の文字を悪いと言っているのでなく、使うのが難しいと思っているだけです。
 
 母は「女子挺身隊」だった
  惣作の連れ相いである母・百千(おせん)は、本楯村役場(昭和29年に酒田市編入)で書記として勤務していた池田忠吉と、遊佐町蕨岡「杉勇酒造」の佐藤家から嫁いだ寅代の長女として、昭和2年11月26日、酒田市本楯・草田で誕生しています。
 昭和16年12月8日の大東亜戦争勃発当時は14歳になったばかりです。
 当時、若手男子の多くは兵隊にとられ、国内の労働力が極端に不足していました。これに代わる労働力の補完要員として、昭和18(1943)年、国家総動員法に基づく制度で、女子挺身隊の組織化が進められ、14歳〜25歳迄の未婚女子数万人に「女子挺身隊勤労令」が発せられます。
 尋常小学校を卒業したばかりの母は、直ぐにも
女子挺身隊、正式には「女子勤労挺身隊」に選ばれ、川崎市の南武線「日本電気駅(現・向河原駅)」近くの、当時、主要な軍需工場の一つとされた「日本電気(現・NEC)」の玉川向工場に二年近く召集されています。「酒田辺りからは5〜6人位いた」と聞いています。
 徴用の選考は市町村が主導したそうですから、父親の池田忠吉が本楯村役場(昭和29年 酒田市編入)で書記として勤務中とあっては、「大切な娘であっても、お国の為には仕方なし・・・」と必然的に選ばれたと推測されます。日本電気では毎日、何の製品の何処の部品か分からないところの半田付けが主な仕事だったそうです。
 「料理や洗濯はへただが、半田付けだけはプロだ」が口癖でした。
 昭和20年6月頃になると、川崎の工場も空襲が激しくなり、岐阜県の工場に移動しますが正確な位置は分らないそうです。後で調べると、岐阜県岐阜市には、大きな日本電気の会社がありますから、ここで数か月働き終戦を迎えたと思います。
 岐阜県で終戦を迎えると、ようやく本楯・草田の実家もどって、嫁ぐ準備に入っています。
 母は「おらだは大変な時期に生まれ合わせたものだ。それでも全国から同じ年頃が集まって来て、いろいろ思い出深かった。」と当時を回想していました。
 また、「戦争がもう少し長引いていたら“
従軍看護婦”を希望していた。」と語る事もありました。
 きっと、同世代の
女子挺身隊の皆さんと、そんなことを話し合っていたのでしょう。
 そして、「もし、そうなっていたら、おめだは生まれていなかったかも知れない」と続けて語り、当時、二十歳前の娘たちの覚悟の程を知ることが出来ました。
 なお、
女子挺身隊のことは、『日本電気ものがたり』日本電気、1980年版や、『続日本電気ものがたり』日本電気、1981年版でも紹介されています。
 川崎・日本電気の女子挺身隊同僚の皆さんと(上右端が母、17か18歳)
 
 
 
 「草田」は右上で城の輪柵の南西です。左上は「古川」村で野沢から嫁いだ佐藤家があると聞きましたが、野沢のどこの家なのか不明です。この辺りは、子供時代の夏休みには、毎年のように10日くらい連続で泊りに出かけ遊び回った村なので、比較的詳しい場所です。ご先祖の墓地は左手中央であり、帰省すれば必ず墓参りに立ち寄っています。城の輪柵は奈良時代に造営された「出羽国」の国府所在地の有力な候補です。、 
 
 「草田」は左上、右上は豊原。豊原の後藤丹蔵家の婿「善治」は、一農民ながら明治26年〜昭和9年迄、42年間、毎日日記を書き残した人で善治日誌として発表しています。この話は中学生当時の社会科の梅津先生が「日記を一生書けば、それは地域の宝になる」と教えられたものです。この後藤家は妻の叔母の嫁ぎ先であり、10数年後に、直接、本物に触れるとは思ってもいなかった話です。
 
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 岩野のババチャが熊と戦った話 (熊が嫌がる武器?) 
 近年特に、熊が人里に降りてくる話を聞くことが多いようです。この理由はいろいろあると思いますが、根本的には、熊の住むブナ林の領域を人間が狭くし、熊が食べ物を十分に得ることが出来なくなったからだといわれています。熊も生きるためには、仕方なく麓の人里に餌を求めにやってくるのでしょう。
 とっておきの熊の撃退方法?を思い出しました。
 この話は、熊に人が襲われたというニュースで、遠い昔の祖母達の会話を思い出しているのです。その会話は、たわいのない年寄り同士の世間話ですが、あまりにも繰り返し聞かされて、その度に腹を抱えて笑わせられた話です。
 話せば何てことありませんが、曽祖母・金代の一番下の妹で、祖母・鉄江の叔母に当たる清恵バアさんは、鳥海山の麓村で白井新田の「岩野」に嫁いだ人ですが、屋敷の北側は全てが鳥海山といってもいい環境でした。 (孫娘の婿は、数年前まで遊佐町町議会議員議長を務めた岩野の 堀満弥です。)
 祖母の鉄江から見て、叔母に当たる清恵婆さんは、当時75歳過ぎの小柄な老婆でした。
 秋深い10月ころ、岩野の屋敷で落ち葉の庭掃除をしていると、突然、熊が庭に現れたという。
 70数年生きていたが初めての体験で、それはそれは腰を抜かすほど驚いたそうだが、その時、たまたま持っていた掃除用具(武器?)が幸いしたという話です。 
 それは、庭の掃除に偶然持っていた「熊手」(こまざれ)だったのです。
 この「熊手」(こまざれ)を無意識 のうちに振りかざしたところ、熊は逃げて行ったという単純な話です。当時の田舎なら、「熊手」は何処の家にもある普通の掃除用具ですが、田舎では「こまざれ」だが、正式名称は熊手であり、その形状は大きな熊の手でした。熊も自分より大きい手を振りかざされたら、きっと驚いたであろうと思います。ありそうな話で、みんな納得して聞いていたが、なんども喋るうちに話に尾ひれがついて、面白さもアップしていたのです。
 ついには、熊手を振りかざして追いかけたとか、向かって来たので熊手で戦ったような話になっていたのです。こどもの私は事実と思って聞いていたのですが、これが最近の話なら、新聞、テレビの取材も来ていたことでしょう。田舎では、テレビも無い時代に、こんなたわいのない話で老婆達は盛り上がっていたのだが、これが最近の熊に通用するかは責任を持てません。
間違っても、他の人に「熊手(こまざれ)は、熊退治に有効だ」などと語っては、本当に笑われてしまいます。
中央が幕末から明治期に開拓された 白井新田です。岩野はやや右側です。
 
 丑太郎やマジスケの惣之助、ウゲジのジチャ達は白井新田開発に従事した
 「白井新田地区」は、江戸時代に庄内藩の郡代「白井矢太夫(1753〜1812」の発案と指導により、藩の一大事業の新田開発が始まります。そして、岩野集落や藤井集落、金俣集落などが開墾された地域です。
 我が家の曽祖父・丑太郎も明治後期に新潟県北端の中浜からやって来て、当初は野沢の卯吉(ウゲジ)に居候しながら新田開発に携わっています。ジチャ同士は晩年まで仲良かったのですが、どのように知り合ったのかは不明です。
※昭和32年丑太郎の死去により埋葬時の様子。左端がウゲジのジチャ。中央が惣作、右端が小生。
 「墓地、埋葬等に関する法律」は昭和23年成立)

 また、ウゲジ(卯吉)の家は野沢で最も古い家柄でマジスケ(松之助)の本家でもあり、マジスケの長女・金代も出入りしていたのか、それとも逆に、丑太郎がマジスケに頻繁に出かけて知り合ったのか不明ながら、結婚する運びになります。
 そして、丑太郎の義父となった「惣之助」は下当のソンゼンからの婿入りながら、当時、遊佐村の村会議員として白井新田開発の図面作成などに名前を残しており、新田開発の責任者の一人だったことが推測されます。村会議員のマジスケの「惣之助」は、曾祖母・金代の父ですから、私から見て高祖父となります。そして「惣之助」は、丑太郎と金代の結婚を許し、同じ家に約3年間も同居し、その後12年間は同じ敷地の離れで生活しているほどですから、丑太郎も単なる土方人足では無かったはずです。
 ところで「白井新田」の名称は庄内藩の「白井矢太夫(やだゆう)」の功績を讃えての名称です。
 寛政五年(1793)、白井矢太夫は「郡代」の役を任じられています。
 庄内藩では「郡代」は、家老に次ぐ高い地位で農政を総括する役職とされ、また藩の経済を司る重要な任務もありました。白井矢太夫は名君と言われた7代藩主・酒井忠徳(1755〜1812)の信任も篤く、白井新田開発などで石高が大幅に向上したことで、藩の財政再建に成功し、庄内藩の富裕ぶりは「神田大黒」(江戸上屋敷の場所
 この庄内藩の富裕ぶりを妬ましく思って起きたのが天保11年(1840)の「三方国替え事件」です。具体的には「川越藩が豊かな庄内藩へ、庄内藩が越後長岡へ、越後長岡藩が川越藩へ移る」というものでした。この国替え事件は、「殿様(酒井公)に庄内にいて欲しい」との理由で、百姓一揆が組織されたもので、この一揆が幕府に聞き入れられた日本史上、前代未聞のことでした。
  
 
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 高瀬村村長と遊佐村村会議員が作ったマジスケエモジ「丑家」
 野沢の「マジスケエモジ」「家号・丑家(うしえ)」は、本家「松之助(訛ってマジスケ)」の長女・金代と、新潟県山北町(現・村上市)中浜の「丑右エ門」の三男「丑太郎」を婿にして誕生しています。そして、「丑太郎」と「金代」には、明治38年に長女・鉄江が誕生していますから、その前年の明治37年には、本家マジスケで同居しているはずです。日露戦争は、1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日にかけて行われていますから、その当時の昔話しです。
 当時のマジスケでは、丑太郎・金代夫婦は、金代の兄夫婦と、約15年同居していたとあります。そして二人には、長女・鉄江、次女・豊美(大久保に嫁ぐ)、三女・きのゑ(札幌に嫁ぐ)と三女が誕生しています。
 つまり、我が家の祖先は三代が連続して婿取りの家系です。
 当時、同居中の本家マジスケでも、金代の兄・惣市郎・トラ代夫婦には、長男・惣太郎、次男・惣三郎、三男・惣治郎の他に、長女・金代の妹の「ブンジロに嫁ぐ)」、「隅江チョゲジに嫁ぐ)」、「清江ウハヂに嫁ぐ」、更に弟の「正一」「正吉」らが一緒に暮らしている訳ですから正に大家族です。
 そして、鉄江が15歳になると婿を取ることなり、大正10年12月26日現在地に新築して分家が始まります。 この当時、鉄江の祖父・惣之助は遊佐村の村会議員を33年間も務めています。婿の「惣之吉」の祖父・惣左エ門(ソンゼン)は「高瀬村の村長」ですから、村長と村会議員の実力者によって誕生しているのです。
 それにしても、ソンゼンの長男で一人息子の「惣之吉」を婿に出すのですから強引な手法です。因みに、昭和29年8月1日に、遊佐町・稲川村・西遊佐村・蕨岡村・高瀬村・吹浦村の1町5村が合併して「遊佐町」が誕生しますから、その35年前のことです。
 この「丑家」の誕生で犠牲になったのが、祖父・惣之吉でした。
 21歳の「惣之吉」は、既に国有鉄道試験に合格して採用待ちだったのです。
 当時の国鉄は、士族の子息を優先して採用していた時代であり、就職出来なかったことはさぞ残念だったことでしょう。羽越線は酒田駅までは1914年(大正3年)12月24日、そして、婿入りの前年1920年(大正9年)7月20日に遊佐駅〜吹浦間が延伸されるなど著しい発展を遂げていました。その発展の様子を横眼に「惣之吉」は、もし国鉄に就職していたならと思ったはずです。
 もし、婿入りしても国鉄に勤めていたなら、その後の生活ぶりは勿論、惣作ら兄弟の成長過程も一変したハズです。「惣之吉」は野沢に婿入りすると、ハチジョロの庭園造りの若者頭として、鉄江と夫婦で働いたと記録されています。
 
※初代町長・渋谷八三郎の庭園は公益大教授の温井亨氏が詳しい。
 鉄江ババチャは、私が5歳当時、ハチジョロの広い立派な庭に連れて行かれ「この石もあの石もオレダが運んだ」と話すときがありました。きっと若い頃、夫の惣之吉と一緒に運んだことを思い出していたのでしょう。   (
右は晩年の惣之吉)
 そして、「惣之吉」が鉄江と結婚するには、「惣之吉」は士族の長男だったことで、「惣之吉」の姉たちや親戚から大反対され、姓を「佐藤」から「渋谷」に直すのに、5年も歳月を要したそうです。今では、「平民だ、士族だ」などと身分を論じることは禁句ですが、まだまだ拘りが強かった時代の話しです。下当の「ソンゼン」の家には酒井の殿様の休憩に利用された記録があるほか、戊辰戦争ではこの家から数名が鎧兜姿で参戦し「秋田口の戦い」では、秋田の深くまで攻め込んでいます。
 「秋田口の戦い」とは、久保田藩連合軍(亀田藩、本荘藩、矢島藩) が慶応4(1868)年7月4日、奥羽越列藩同盟から一早く離脱して、新政府側に付いたことで始まります。そして、新政府軍は久保田藩連合軍 に対して、庄内藩討伐の命を受けたことで小火ぶたは切られます。結果は庄内藩の圧勝でした。
 これらの事は、惣作自身が父親の惣之吉やソンゼンの祖父母達から聞き出しています。
 惣之吉、鉄江夫婦には6人の子供が誕生。2025年1月、京子叔母さんが死去され全員鬼籍に入っています。
下段の写真は惣作が出征直前のものです
 
 概ね80歳以上の野沢の村人なら、そういえば知っていると言う方もおられると思います
 
酒田市立資料館からの資料
 
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  「こもじ布団」の思い出
  「こもじ布団」とは「ワラ布団」のことで、稲わらの横の柔らかいところをムシって布団のワタ代わりにしたものです。この「こもじ布団」を作っている場面は、鉄江ババチャと京子オバさんがよく一緒になって作っていた記憶があります。「こもじ布団」を作っている最中に、弟や妹たちも、飛び込んだり寝転んだりして遊んでは、「邪魔だ、あっちさえてれ!」とよく叱られていたものでした。
 この「こもじ布団」のこもじが新しくなった日は、寝るのが楽しみなものでした。
 あのパンパンに膨れた「こもじ布団」は、寝返りすると少しガサガサ音がしますが、柔らかすぎず、堅すぎず、ふわふわ感は最近のマットレスなど到底及ばないと寝具と思っています。しかも暖かさも抜群で、数日「こもじ布団」で寝ると、その布団は自分の体形に合った窪みができて、まるで自分専用の巣に入ったような感じがして、本当に熟睡、安眠できたものでした。
 弟や妹が“寝小便”して、その辺りが臭くなっても、その臭いワラだけを取り出して、“肥え塚”に捨てて、新しくワラを入れ替えていたものでした。
 自分が寝小便したことは覚えていません。都合の悪いことは忘れています。
 最近、富士山の近くで育った同世代の人と布団談議をしていると、やはり、子供のころは「ワラ布団」で寝たと語っており、日本中、似たように生活をしていたと実感したものです。つまり日本人は、長年、稲作と一体で生活しており、稲ワラの持つ保温力、柔らかく加工し易く、ワラ帽子、ミノ(雨衣)、防寒着、草履、わら靴、バンドリ、背負いカゴ、縄、俵、せんべし、座布団、かます(藁袋)などの藁細工をはじめ、屋根噴き、土壁、ムシロ、薪の代わり、納豆造り、肥え塚、堆肥、等々、衣食住のあらゆる場面で利用してきた歴史がありました。
 「こもじ布団」に話しを戻すと、寝巻きなど無くても、パンツ一つで丸裸に近い状態で一時震えながら布団に滑り込むと、いつしかポカポカになり、深い眠りに入ることができたものです。きっと、ワラには納豆菌のようなものが入っていて発酵して暖める効果があるのかも知れません。最近、“西川の布団”を購入したところ、店員が「西川の布団は世界一と思いますよ」などと奨めていましたが、そんなことを言えるようになったのも、ここ二・三十年のことでしょう。
 もし「こもじ布団」を作ってくれたら、一つ欲しいものです
 
 大切に育てたウサギが家族に食べられた話
  まだ小学校に行く前の、5歳ころですが、近所でウサギを飼うことが流行り出していました。
 「俺も欲しい」と親にねだったのか分かりませんが、父・惣作が、どこかから、二匹の白い子ウサギをもらってきました。大工の父は、なかなか立派なウサギ小屋を作ってくれたのを記憶しています。そして子供でも可愛いと思ったのでしょう。
 毎日、野沢川辺りの川沿いからウサギの好きな草を採ってきたり、葉っぱものや人参など野菜の食べ残しを毎日上げて大切に育てたものでした。
 一年くらい育てたころで、小学校1年になったばかりと思います。
 ウサギも大分大きくなっていて、学校から帰ると、真っ直ぐ二匹のウサギを川沿いまで連れていっては、好きな草を食べさせて遊んだものです。
 そのうち、夕食のとき、父親が誰にともなく、「ウサギもだいぶ大きくなったのー」と語りはじめ、祖母は「そろそろ食べごろかものー」など答えています。
 幼い子供には、意味不明の会話に思っていたのです。
 そんなことがあって数日後、やはり学校から戻って、真っ直ぐウサギ小屋に向かうと、ウサギが二匹ともいない。
 たまに逃げることもあったので、屋敷中や隣近所を探し回ると、なんと、小屋の裏の“肥えづか”の裏側の物干し竿に、二つの白い皮だけがぶら下げてあるではないか。
 まさかと思って、家に入りデドゴ(台所)に行くと、肉の塊が二つまな板に載せてあったのです。
 祖母・鉄江に恐る恐る尋ねると、「今晩、喰わせてやるから・・・」と平然と告げられたのです。
 それからは、気が狂ったように泣いたことを覚えているだけです。
 夕食には“ウサギ鍋”になっていたが、食べることができなかったはずだったが記憶が飛んでいます。
 しかし、この話は後に両親が上京のおり、妻や子供達もいたところで、「こんなヒドイ事もあった。」と、文句くさく昔話を紹介したところ、妻や子も「なんと残酷な!」と驚いている。
 ところが、母親の百千は「おめも、泣きながら、うまそうに食べていた。」という落ちが付いてしまった。当時は、ニワトリも20匹くらい放し飼いにしていて、毎日のエサやりが自分の日課でした。
 ただ、このニワトリも、しょっ中、家族に食べられて蛋白源になっていたものでした。
 この放し飼いの地鶏の味は、引き締まっていて美味いものだった。
 それに、祖母・鉄江がニワトリを処理する場面は何度も見ていましたが、首をなたで落とすところなど、実に手慣れたものでした
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10  知らずに絶滅危惧種を食べていた話(アユカケは美味かった)
  中・高校の頃になると良く鮎を捕まえると同時に“アユカケ”も捕まえては塩焼きや空揚げで食べたものでした。上京してからはお盆の頃に帰省すると、弟たちに小遣いをやっては捕まえて来てもらったものです。50年以上前の昔話です。
 それが後に、その“アユカケ”が絶滅危惧種に指定されて、まず最初に福井県では天然記念物に指定されたと知りました。その後は、次々と、山形県の他、北海道、秋田、岩手、福島、福井県、京都府、広島の8県が準絶滅危惧種指定で、「天然記念物指定」は「福井県」だけのようです。
 いつ指定されたのか正確には知りませんが、“アユカケ”には気の毒なことをしたと思っています。
 アユカケは(鮎掛、学名:Cottus kazika)は、カサゴ目カジカ科に属する日本固有種の降河性回遊魚で、大きいのは30センチにもなりますが、生態はまだまだ謎が多いそうです。山形県や東北には、淡水魚研究の専門家がいないことが研究が進まない原因のようです。
 尤も、余程、暇と資金がないと研究に没頭することができないものです。
 もし資金力のある方がスポンサーになって研究したら、いい題材と思います。
 魚には「降河性回遊魚」や「遡河性回遊魚」があります。
 成長過程で、海と川を行き来できる魚のことです。
 これはウィキペディアからの情報ですが「アユカケは石に化けると言われます。アユカケは岩陰に隠れるとき小石模様の体色と動かない習性で石に化けたように気配を消すことが知られています。遊泳力が低いため静止して餌の魚の寄るの待ち伏せしたり、逃げる時岩に尾を岩にぴたりと沿わせ一体化し動じない様子はしばしば観察されます。NHKの取材班は、アユカケに獲物が近寄ると呼吸を止め鰓蓋も動かさない行動を撮影しています。また、アユカケは「トゲで鮎を捕まえる」とも言われ、アユカケの鰓蓋には鋭い棘があるが、これを待ち伏せたアユ等に引っ掛けて捕らえるとされます。和名「アユカケ」の由来であるが、いまのところ実際には観察されていないそうです。案外、研究テーマになるかも知れません。
 
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11 惣作が結婚相談員をしていた当時の話 
 遊佐町では、現在も「結婚相談員」「結婚コーディネーター」のような方は数名おられるのでしょうか。
 独身者が多過ぎる昨今、逆に大変だと推察すると同時に、特に個人情報の管理面からも余計な事に気を遣う必要が伴い、難しい時代になったと思っております。惣作は、昭和53年(1978年)53歳ころから、79歳で脳梗塞で倒れるまでの約26年間、この結婚相談員を委嘱されており、この間、49組まとめたと語っています。
 「結婚相談員」制度が、いつから始まったのか正確には知りませんが、昭和50年(1975年)当時、遊佐町でも深刻な嫁不足、婿不足の危機の声が挙がっていました。それを何とか補うために、年間7〜8万円でクルマのガソリン代金程度の報酬ながら、惣作は、結構やる気を出して、あちらこちらにアクティブに動いていました。
 結婚が成立した際の、いわゆる成功報酬もあったようですが、正確には聞いていません。
 この「結婚相談員」には、結婚適齢期の名簿が町役場から渡されていて、いかにマッチングするかは、事前に町の独身者の住所や電話番号は勿論、年齢、職業、収入などの個人情報を把握しておく必要があり、「それなりに気を遣うものだ」と語るときがありました。
 携帯電話も普及していない時代ですから、打合せもセッテングも大変だったハズです。
 約26年間で、49組まとめた中には、韓国から招いた嫁さんも数人おられたと聞きいています。
 そして、道の駅「ふらっと」が計画されると、この嫁さん方が中心になって「韓国料理店」を出すことになります。惣作が「韓国料理店」開業にどの程度発言力を持っていたかは不明ですが、道の駅は「地産地消」が大原則であり、道の駅を運営する自治体の理解や協力が無ければ開業できません。
 きっと、「せっかく異国から遊佐町に嫁いでも、仕事も無ければ寂しい思いをするであろう。」との、町の関係者の配慮があったはずです。あれから約30年、最近では、この道の駅で「韓国フェア」なるものが企画されているようで、すっかり町に熔け混んでいる印象です。
 実は、道の駅「ふらっと」が出来て間もないころ、惣作から、この話を聞いたので、この韓国料理店に出かけたことがありました。そして、それらしき女性店員に「アニンハセヨ」と挨拶をすると、笑顔で「アンニンハセヨ」と返ってきたのです。
 そこで、「ふらっとに アンニハセヨの 笑顔あり キムチ料理も 遊佐の味なり」と詠んでいます。
 あれから随分と歳月が流れましたが、どんな風になっているかと気になって、吹浦の菅野に嫁いだ妹に買い物に行ったついでに、「韓国からの嫁さん方も70歳前後になるが、ちょっと覗いて欲しい。」と連絡したところ、数日後に「みんな日本人に見えて検討が付かない。」と返事がありました。
 韓国からの嫁さん方も子供や孫に恵まれ、韓国料理とともに遊佐の街にすっかり馴染んでいるものと受け止めています。しかし、遊佐町民の中には、地産地消の「道の駅」になぜ韓国料理店があるのかと疑問を持つ方もおられると思いますが、こんな歴史があったことも少し知っておく必要があると思います。
 ところで、「遊佐パーキングエリアタウン(道の駅鳥海移転整備)事業」が公表され木造2階建て、茅葺き風、切妻屋根の純和風のようですが、この韓国料理店も必ずや入るものと期待しています。
 
 惣作が「結婚相談員」当時に町の機関紙で紹介された内容です。
 
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12 遊佐町人口減少問題の考察 
  先日、遊佐町内に嫁いだ野沢出身の同級女性と電話で話す機会がありました。いろんな近況報告を受けたと同時に、お互いが知っている同級生の皆さんの消息や現状、そして、あちらこちらで高齢の独身男女が多くなった話題が中心となって、「こまた時代になったもんだ。」と諦めムードを語っていました。
 また「広報ゆざ」の訃報欄の人数の多さに比べ、生まれた赤ちゃんの掲載の少なさに驚きます。
 (
人口の変動には死亡数と出生数の差による「自然増減」と、転居による流出数と流入数の差による「社会増減」の二つの側面がある。)
 それに町の広報誌に、空き家が町内で500軒を超えたのに、「空き家バンク」に登録された空き家は11軒だけだと嘆いている記事もありました。
 このような問題は全国的な傾向で、何も遊佐町だけの問題ではないと思います。
 この原因はいろいろあって、解決に向けた決定打など思いつきません。
 と断言してはお話になりませんから、せめて思うのは、逆に人口が増え続けた戦後の当時の世相に何か問題解決のヒントがあると思っております。
 戦後の昭和22年から25年辺りを一括りに「団塊の世代」と呼ぶことがありますが、誕生する子供は年間260万人を軽く超えていました。戦争が終わって、戦地から多くの若者が郷里に戻って結婚したことを一番の理由に掲げますが、それだけではないと思います。一番大きい理由は、戦後の20年から30年近くは、旧憲法の影響が強く残り、良し悪しは別にして、明治憲法下の民法で規定された「家制度」や「家長制度」と呼ばれる制度は、田舎に行けば行くほど根強く残っていた印象でした。
 そして、両親や叔父・叔母の世代は、家長をはじめ、親族、世話役たちが「この二人は似合いだ」と、見つけて来たお相手との見合いによる結婚が殆どの時代で、自由恋愛による結婚は少数だったと聞きます。
 しかし、昨今は、この世話を焼く人物自体が極端に激減したことも、適齢期の男女が結婚に踏み切るチャンスを逃がす原因の一つと見られ、生まれる子供が比例して激減するのも当然の成り行きです。
 近年は特に、女性の社会進出が進み自立した女性が多くなり、男女とも一般的に高学歴となり、相手にも収入など高い基準や理想を求める傾向も一因とされます。映画「たそがれ清兵衛」の叔父役の丹波哲郎が、「顔など付いていればいい。丈夫ならそれでいいではないか。」と、清兵衛に説教するセリフを思い出しています。そして、急速な人口減少問題過疎化問題、空き家問題墓じまい問題、火葬場不足、輸血用血液不足、後継者不足問題などは、全て横並びの問題と思われ、今の制度や風潮、考え方では打つ手がなく結局行き着くところまで行きそうです。そして焼け石に水の対策より、確実に到来する人口減少によるメリットもあります。それは、「ウサギ小屋の解消」、「渋滞の緩和」、「余計な公共施設の削減」、「自然の復活」、「24時間営業の廃止」なども期待されます。よって、これに合わせて「コンパクトな街つくり」を目指すなど、今から対策を練っておく以外にないのではありませんか。
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 https://www.town.yuza.yamag ata.jp/uploads/contents/archive_0000001093_00/attc216edf9.pdf
(令和4年3月現在、野沢は右中段です) 
 
 
2020(令和2)年時点の遊佐町人口ビジョンです。30年後はほぼ半減です。 
このような予測は殆どが当ると言われています
 
 
13 「遊佐町史」上下巻を購入しています
 遊佐町史(上巻)は平成19年(2008年)度に、更に令和5年(2023年)に遊佐町史(下巻)が発刊されました。この「遊佐町史上下巻」をまとめて購入したのは今年(2025年)2月です。それは、昨年、親族から「我が家のご先祖の名前が何名か掲載されているよ」と聞いていたことが切っ掛けです。
 下巻の「遊佐町史編纂委員会会長」の渋谷隆士氏が、「遊佐町史下巻の編さんにあたって」の巻頭の挨拶文の中で、「町史上・下巻で遊佐町の通史として、特に若い人達に少しでも関心を持って頂きたく、又地元を離れても故郷を語れる人になって頂きたく、編纂に当って反省と感想を申し述べました」とあります。また、「必ずしも通読せずとも必要な箇所だけ読んでみるとか、祖先の関係だけ読んでみるとかして、座右の書にしてもらえれば関係者として喜びに堪えません。」とあります。
 この言葉は、郷里から遠く離れて暮らす我が家にピッタリ当てはまる呼びかけです。
 近年の我が家では、妻方の酒田市内の両親を含め、親が次々と亡くなった上、更に数年間続いたコロナ禍の影響もあって、帰省の機会が極端に遠のいていました。それが今年(2025年)1月末に幼少時からお世話になった京子叔母が94歳で亡くなり、6年ぶりに夫婦だけで帰省したのです。すると、遊佐町では、日沿道「酒田みなと〜遊佐」が開通したほか、野沢近くには「遊佐カントリーエレベー」や吉出の元酒造業「鳥海」跡に「遊佐蒸溜所」が建てられ、更に、遊佐町役場も立派な庁舎に生まれ変わっており、昔からの景観がかなり変化していたことで、若干の浦島太郎気分を覚えたものです。今後も、帰省の機会は減ると予測されますから、「遊佐町史」を座右の書として、郷里からリアルタイムで送られて来る「ライブカメラ映像」を大型テレビで鑑賞しつつ、更に毎月発行の「広報ゆざ」の購読で、望郷の思いを埋めようとしている今日この頃です。
 
 この画像は、酒田市山居町のホテル屋上からの、YBC山形放送提供のライブカメラからです。
遊佐町の街並みや田園風景が見えないのが残念です。遊佐町でも是非ライブカメラの配信を期待します。

 
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  遊佐町野沢で生活していた当時の体験や、祖先や両親、親戚等に関連した当たり障りのない話しばかりです。個人情報も含まれていますが、皆さん連絡が付く方ばかりであり、苦情やミスには直ぐ対応出来ます。願わくば。これらの情報から、ご自分の家のことや村や町のことを勉強する切っ掛けにして欲しいものです。なお、野沢に関すること限定で、悪口や商売以外でしたら、無料で掲載しますからご連絡下さい。取り合えず祭礼などの行事が理想と思います。
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