日向川流域・平家の落ち武者伝説の概略
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 現在は遊佐町と酒田市のほぼ境界を流れる日向川流域に伝わる「平家の落ち武者伝説」のことは、閲覧し易いようにこの頁にまとめておきます。 一旦は別々に記載したものを一つの頁にまとめましたので、ダブっている箇所があることをご理解をお願いします。このテーマは、今後も出来るだけの記録や証言を集めて、ここに残しておきたいと思います。

この伝説は、時代が平安から鎌倉に代わる直前の1185年4月25日に起きた「壇ノ浦の戦い」で戦死した池田源三郎快光(よしみつ)の息子五人兄弟は、源氏からの厳しい追討を避けて出羽国の日向川流域に落ち延びたことに始まります。そして、万が一源氏から発覚した際に全滅を防ぐため、長男・秀盛は土路沢(泥沢)(とろさわ)の山中に、二男は最初に辿り着いた升田奥地の「玉簾(たますだれ)の滝」近くに、三男と四男は芹田(せつだ)に、五男は豊岡の水上(現・遊佐町豊岡水上)に分かれて住むことにしました。現在は酒田市芹田家ノ下2番の光浄寺近くには、池田兄弟が別れの酒盛りをしたという「兄弟水酒盛り塚」と呼ぶ塚があります。五人兄弟全員の名前や年齢は不明ですが、摂津国池田の地、今の大阪・池田から辿り着いた当時の日向川流域の情勢に思いを馳せますと、前九年の役(1051~1062年)や後三年の役(1083~1086)から概ね100年後のことです。この頃には、秋田や陸奥の蝦夷との戦いもほぼ平定した後で、約300年続いた「城ノ輪柵」の軍事的役割も終えた時代でした。

また、同じ年の1185年11月8日には後白河法皇が頼朝に「義経・行家追討の院宣」を下しています。
 源義経一行が平泉に逃れた経路は、北陸の能登「義経の舟隠し」から日本海を船で北上して鼠ヶ関に上陸していますが、平家の落ち武者五人兄弟は、摂津国・池田から能登を経由し陸路を北上して出羽国に逃れたと伝わっています。
 きっと、義経一行より一足先に出羽国の日向川沿いに辿り着いたと推測しています。
 更に、五人兄弟が落ち延びた4年後の1189年には、奥州藤原氏が源頼朝から滅ぼされた際、藤原秀衡の妹または後室とされる徳尼公36人の家臣とともに酒田に落ち延びて酒田発展の基礎を築いたという伝説もあります。また、新田目を拠点とした須藤氏(留守氏)は、八幡太郎・源家義に従軍し「後三年の役(1083~1086)」で出羽国に派遣された際に「城ノ輪柵」の「出羽留守職」を命じられています。留守氏という名は、その職名からですが、「後三年の役」の後もそのまま本楯の新田目に留まった一族でした。
 参考ですが、鎌倉時代の日本の人口は現在の15分の1程度です。現在、荘内平野全体では32万人ですから、この15分の1と単純計算すると約二万人の人口ですから、随分と閑散とした光景が伝わってきます。

平安時代末期の出羽国は、各地で貴族や豪族らによる荘園が広まっていました。
 743年の「墾田永年私財法」により、未開発の荒れた土地の開発を国司に届けるだけで、自分で水路を引き耕した田畑は永遠に所有出来たのです。よって、当時の土地所有は力のある者が早い者勝ちの時代でした。出羽国でも大泉・海辺(あまべ)・遊佐の三大荘園が平安末期には成立していた可能性があります。平家の落ち武者五人が落ち延びた当時も出羽国では荘園ブームは続いていたと思われます。五人兄弟たちも、国司に届けるだけの簡単な手続きで「土地所有が出来る」ことを知って、田畑に水路を引き易い日向川流域に居を構えて、周辺の未開の土地を開墾したと推測できます。特に、10町歩(一反歩の10倍の広さ)までの個人所有の開墾なら、より簡単な時代だったそうです。池田姓が多い村々の略図を見ても、荘内平野の比較的良い位置に居を構えていることからも理解できます。
 ところが荘園も規模が大きくなるに連れ、土地争い・水争い・農民の奪い合いなど揉め事が多くなったことが武士誕生の理由でした。源家義の家臣・留守氏が出羽に留まったのも、留守氏自身や家臣、家族も「城ノ輪柵」に約三年間の駐屯期間中に自身も墾田しており実り豊かな出羽の魅力に魅かれたことと同時に、既に武装していた留守氏に荘園の守りを期待したこともありそうです。
 参考ですが、文明10年(1478年)当時、出羽国の最上川以北の勢力図は、前森氏(東禅寺城)、留守氏(新田目城)、来次氏(観音寺城)、池田氏(朝日山城)、砂越氏(砂越城)が群雄割拠しています。この留守氏は、「関ケ原合戦」では上杉氏に従い西軍に付いたため連座して所領を没収され廃城となって、慶長年間(1596~1615年)に帰農しています。当時は、このような弱肉強食の時代が数百年続いていましたが、平家の落ち武者五人兄弟はもちろん、その子孫達は、その後の南北朝時代、秀吉の刀狩関ヶ原合戦戊辰戦争などの騒乱を上手に立ち回り生き抜いて、五人全ての血筋を今につないでいます。

鎌倉幕府が滅亡し南北朝時代の1335年(建武2年)頃に出羽国の朝日山に、平家の落ち武者五兄弟の後裔が城が築いています。1185年の「壇ノ浦の戦い」に破れ、池田氏五兄弟は、出羽国の日向川流域に隠れ棲んでから概ね150年後には一国一城の主として存在を高めています。この間、池田一族にどのようなご苦労があったのかは想像の域を超えません。そして、更に後裔から異色の人材として、戦国時代に池田盛周(もりつか)が登場しています。父親は池田盛国で大宝寺氏(武藤氏)に仕えていました。祖先は藤原秀郷の嫡流藤原仲光が、都より摂津国池田の地に土着し池田氏を名乗ったことが起源と伝えられています。そして池田仲光は平清盛の異母弟の平頼盛に仕えていましたが、1185年の「壇ノ浦の戦い」で敗れ戦死すると、息子5人兄弟は出羽国の日向川流域に落ち延びています。
 池田盛国は、池田源三郎快光の後裔・池田秀盛(ひでもり)から数えて15代目の子孫とされています。
 「平家の落ち武者の長男・秀盛(ひでもり)からは、15代目の子孫」と簡単に記述されていますが、都育ちの5人の兄弟たちは慣れない土地で、どんな艱難辛苦を味わったのか想像に難くありません。摂津国・池田から出羽国に旅経つ際は、有り金や金目の物など全てを持ち出したことは推測できますが、それでも、サバイバルに近い生活が続く中で、よくぞ、子孫を絶やさず15代もつないで、城を構えるまでになったものだと評価する以外に言葉はありません。

現在の鶴岡・大宝寺氏(武藤氏)に仕える池田盛国の子として、天文年間(1532~1555年)に誕生した盛周(もりつか)は、三千町歩を領しているほか、この領地で暮らす農民たちは池田氏のもとで家臣団を形成し、「朝日山五十人衆」と呼ばれています。きっと、平家の落ち武者五兄弟の子孫もこの時とばかりに優先して馳せ参じたと推測できます。同じころ、織田信長は平家の末裔を名乗って売り出していますから、共に平家復興を夢見た可能性もあります。
 ところが、信長に代わって豊臣秀吉が全国を統一すると、1582年には大規模な太閤検地が始まり、更に1588年には百姓から武器を取り上げる刀狩令を発しています。すると、池田盛周(もりつか)は果敢にもこの令に反旗を翻しています。そして、朝日山城は一揆軍の拠点として抵抗するも1590年12月に敗れ、盛周は一旦は新庄の山城・鮭延城(さけのべじょう)の鮭延秀綱のもとに逃れています。
 現在の酒田市新青渡(にいあおど)村の言い伝えでは、池田讃岐守盛周鮭延城に逃げる際、朝日山城の家老であった堀玄藩に、自分の子の池田幸右衛門を預けています。そして、出羽国・砂潟(酒田)に残った家老の堀玄藩は数名の家来と共に現在の新青渡村を開墾したと伝わり、現在も池田姓や堀姓の家々が現存しています。
 なお、庄内が最上氏の領地となると池田盛周は旧功を認められ、旧領荒瀬郷古川村100石を賜り復活しています。しかしながら、1622年(元和8年)最上家が義光(よしあき)の孫・義俊のとき世継ぎ問題に絡むお家騒動で取りつぶしになります。以後、庄内藩・酒井家や新庄藩の治世となると、池田盛周は「自分の役割は果たした。」と判断したのか、武士から帰農して長い間大肝煎(村の役人)をつとめています。右上は遊佐町史に掲載された1638年当時の「荘内の大肝煎」一覧ですが、古川村に「池田六兵衛」の名前が載っていますから、池田盛周の子か孫と考えるのが自然と思います。

母親の生家、荒瀬郷古川村(現・酒田市)に隣接した草田・池田家は、元禄8年(1695年) 日向村升田・池田家からの分家として誕生しています。これは、古川村で大肝煎をつとめる池田盛周の子孫が、親族を呼び寄せた可能性があります。
 当時の江戸幕府は徳川家8代将軍・徳川吉宗の治世でした。同じころ俳諧・松尾芭蕉は元禄2年(1689)3月、門人の曽良と江戸深川を出発し、奥州・荘内・象潟・北陸などの名所・旧跡を巡って俳諧紀行「奥の細道」を記しています。後に「元禄景気」「元禄文化」が華開いたと回顧されるように、長い戦乱の世からようやく抜け出して、このころは荘内平野の村人も平和を実感する時代の到来だったと思われます。
 このように、歴史も先祖に想いを馳せながら学ぶと、また違った価値があるものに見えてきます
 人間なら誰でも太古の大昔から必ず自分の先祖は存在するわけで、旧石器, 縄文, 弥生, 古墳, 飛鳥, 奈良, 平安, 鎌倉、室町、戦国、江戸、明治・大正・昭和・平成・令和と連綿と続く中で、その時々に存在したご先祖に感謝しながら、歴史を自分につなげて観ることも極めて大切なことと気づきます。
 
 
遊佐町史(上巻)に掲載された池田讃岐守 
 
 
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01 出羽国に強制移住させた「柵戸(さくこ)」のこと。
1 日向川流域で平家の落ち武者5人兄弟が別々に暮らしていた。
2 遊佐や酒田の池田家が今にあるのは池田盛周(もりつか)の存在が大きい
3 藤原仲光は摂津国(大阪)池田で「池田仲光」?と名乗った
4  遊佐町豊原の「水上(みずかみ)」に伝わる平家の落ち武者伝説。
5 遊佐町史上巻で紹介された「平家の落ち武者伝説」の内容
6 野沢の「龍沢館」の館主がタヨサマの祖先だった当時のこと。
7 平家の落ち武者5人兄弟が辿り着いた玉簾(たますだれ)の滝
8 落ち武者5人兄弟は玉簾の滝より上の「鶴間池」に辿り着いていた
9   遊佐町の小松家は平家の落人出身といわれる小松周輔
10  焼き畑農法の「升田かぶ」は平家の落ち武者が伝えたか
11  酒田市升田区の地域活性化に関する調査研究」温井亨(抜粋)の紹介
12  家の落ち武者の末裔、朝日山城主・池田氏の寄進物・愛用品
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01 出羽国に強制移住させた「柵戸(さくこ、きのへ、きべ)」のこと。
  日本各地から、城輪柵などの東北の城柵内外で農作物を耕作する「柵戸(さくこ)」と呼ぶ、強制移住させられた移住者のことを知らないと、出羽国の開発・発展は理解出来ないと思います。
 1185年の「壇ノ浦の戦い」で平家の落ち武者らが日向川沿いに落ち延びた当時の出羽国の情勢が気になるものです。出羽国では593年に開山した出羽三山信仰は平安時代には修験道の山として一般民衆の信仰を集めていたようです。712年に出羽郡は出羽国に昇格しますが、秋田や陸奥方面の蝦夷の住む土地に支配を拡大する目的で城柵を設けています。陸奥国府だった「多賀城」(712年)、坂上田村麻呂が築いた志波城、奈良時代(710年~794年)末期には出羽国国府の有力候補の城輪柵などが知られています。
 まるで米国の西部劇映画に見る、先住インディアンと戦う騎兵隊の砦をイメージしています。日本では、いわば敵地に城柵を設けると同時に、城柵内外で農作物を耕作する「柵戸(さくこ)」と呼ぶ移住者が多数おられたことを知りました。これは、大東亜戦争では戦地には兵隊と同時に「軍属」と呼ぶ、兵隊さんを支援する医療体制や食料を生産する人達もおりましたから似たようなものと思います。
 八幡町史に「柵戸(さくこ)」のことを紹介してありました。
 要約すると7世紀から8世紀にかけて、城柵を維持するためにその内部ないし周辺に置かれた戸、城柵に属する人々をいうとあります。「続日本紀」には、714年(和銅7)に尾張・上野(かみつけ)・信濃・越後等から200戸を出羽柵へ強制移住させたこと。その後も716年に信濃・上野・越前・越後から各100戸、計500戸、717年にも信濃・上野・越前・越後から各100戸、計400戸、719年には東海道 (太平洋側の中部)・東山道 (本州内陸部を近江国・岐阜辺り)・北陸道から200戸を出羽柵へ入植させたとありますから「柵戸」の出羽国への移住は、5年間の短期間で総計で1300戸におよんでいます。
 戸数ですから家族単位と思われ、人口に換算すると合計数千人が送り込まれたと推測できます。
 荘内平野はこの人達を元に、約400年後の平安末期には二万人位に増加したとイメージ出来ます。
 この強制移住の目的は、蝦夷対策として出羽国の開発・開拓・支配を促進するためであり、人間の頭数で不安定な出羽国の支配を強化して、居ずらくして蝦夷の追い出し、或いは俘囚化、また、城輪柵(国府?)へ派遣された兵士たちの食料とする農作物の耕作のためのようです。当然ながら後に発生した、前九年合戦(1051年~1062年)、後三年合戦(1083年~1087年)当時にも、徴兵や兵站の要員として活用された人達と思われます。また、移住者が持ち込んだと思われる、遊佐や八幡の「古四王神社」や「諏訪神社」などの存在も気になっています。「古四王神社」は遊佐には野沢のほか九か所もあるそうです。
 
 
 
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1 日向川流域で平家の落ち武者5人兄弟が別々に暮らしていた。 
  日本の長い歴史の中で天下を二分した出来事として、平安時代末期の平氏政権に対する源氏の不満が爆発した源平合戦、天皇が2人並び立った南北朝時代、天下分け目の戦い関ヶ原合戦、庄内や会津をどん底に追い込んだ戊辰戦争などをあげることが出来ます。この国を二分した戦乱の中でどっちに加担したかで、その後の立ち位置や暮らしぶりに大きく影響していました。
 
我が家の母親は、殆どが池田姓の本楯の草田生まれで、野沢に嫁いでいます。
 私が高校生くらいになると、酒田市役所勤めだった祖父からは、「この家は、平家の落ち武者で八幡の更に奥の升田村“玉簾の滝”近くの池田家からの分家に当る。」と聴かせられたものです。
 平家の落人伝説は山形県内では、この辺りが唯一のようです。ここからは主にネットからの情報になりますが、源満仲に仕えていた藤原仲光の後裔で、代々摂津国池田の地に土着していた池田源三郎快光という武士が、平清盛の死後、頼盛に仕え、伊勢平氏の一門として「一ノ谷の戦い」に参戦し敗れ、続く、元暦2年/寿永4年(1185年)の「壇ノ浦の戦い」で戦死。その5人の息子達は鳥海山麓の日向川沿いに落ち延びて、源氏からの厳しい探索から逃れるため別々に暮らすことにしたのです。長男・秀盛は泥沢の山中に、二男は最初に辿り着いた升田という谷の奥地に、三男と四男は芹田(せつだ)に、五男は平坦な豊岡(現在の遊佐町豊岡水上)に分かれて住みました。いずれも日向川流域に住み続け、上手に土着したと見られ、それぞれ子孫に恵まれ、各村も発展し現在に引き継がれています。
 その後の、南北朝時代も戦国時代もなんとか乗り切って、子孫を今につないでいます。
 また、酒田市八幡の光浄寺(酒田市芹田家ノ下2番)近くには、池田兄弟が別れの酒盛りをしたという「兄弟水酒盛り塚」と呼ぶ塚があります。更に、池田盛周(もりちか)は池田源三郎快光(よしみつ)の後裔・池田秀盛から数えて15代目の子孫とされますが、元和8年(1622年)最上家がお家騒動で失脚すると、代わって庄内に入った酒井家から、池田盛周は「旧領荒瀬郷古川村100石を賜わった。」とあります。この時、盛周自身が古川村や隣の草田村に居住したかは不明です。推測ですが、隣接の草田村には多くの池田姓が見られることから、自身が地頭として管理する村に、親族を呼び寄せたとの見方が出来ます。
 なお、この平家の落ち武者5兄弟(ゆかり)の人物として、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)の池田正之輔、三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬がおられます。池田正之輔(1898年~1986年)は観音寺村芹田(せつだ)出身でしたから三男か四男の末裔でしょう。
 そして、本楯・草田の池田家は、升田に残った次男の末裔であることが有力です。
 
 
2 遊佐や酒田の池田家が今にあるのは池田盛周(もりつか)の存在が大きい
 殆どが「ウィキペディア(Wikipedia)」からの内容であることを先にお断りしておきます。
 戦国時代をなんとか乗り切った池田盛周(もりちか)は、前記した源氏からの厳しい探索から逃れるため、鳥海山麓に落ち延びた平家の若武者5人兄弟のうち誰かの末裔です。池田盛周(いけだ もりちか、生没年不詳)は、戦国時代の武将。出羽庄内地方の朝日山城城主で、通称は、讃岐守(さぬきのかみ)で、悪次郎と名乗ったこともあるそうです。

 本来「
」は「突出した」「力の強い」という意味合をもつ。そうです。
生涯
天文年間(1532年~1555年)、
 大宝寺氏(武藤氏)に仕えていた池田盛国の子として誕生。50騎の地侍を従え3000町歩を領した。出羽朝日山城(現在の山形県酒田市生石矢流川)を拠点とする池田氏は、平安時代中期頃に藤原秀郷の嫡流藤原仲光が、都より摂津国池田の地に土着し池田氏を名乗ったことが起源と伝えられている。その後、平安時代末期に至り平家に仕えたという池田源三郎快光の後裔・池田秀盛が、治承・寿永の乱(源平合戦)に敗れたのち5人の兄弟は共に鳥海山麓に逃れ、その後生き延びた子孫たちが建武年間(1334年~1338年)に築いた山城が朝日山城であるといわれている。盛周は秀盛から16代目の子孫とされる。家紋は「丸に揚羽蝶」である。はじめ大宝寺氏に仕え、若くして武将としての頭角を現し、方々の戦に従軍しては戦功を挙げていたという。
1582年
 主君・大宝寺義氏が家臣の謀反により自刃すると、最上義光に通じてその跡を継いだ義氏の弟・大宝寺義興に抵抗したため改易されるが、後に許され所領を安堵された。大宝寺義興の死後、1588年に大宝寺氏の家督をめぐる争いである「十五里ヶ原の戦い」において最上勢として参加。大宝寺義勝を擁する越後国の上杉氏家臣・本庄繁長と戦い、朝日山城に籠り最後まで抗戦するも降伏(朝日山城の戦い)、大宝寺義勝に所領を安堵された。
1590年
 豊臣秀吉による太閤検地が行われると、これに反対した地元農民の土一揆に加勢し朝日山城は一揆軍の拠点となった。同年12月に敗れ、鮭延城主・鮭延秀綱のもとに逃れた。この時から悪次郎と名乗り、治水で功績を挙げた。
1600年
 慶長出羽合戦において、子の池田盛邦及び舎弟の池田忠内と共に再び朝日山城に籠もる。上杉家臣・志駄義秀と戦い敗れるが、関ヶ原の戦いにおいて徳川方が勝利したことにより、最上勢が勝利をおさめる。1601年、志駄義秀が酒田東禅寺城を開城し、庄内地方は最上氏の領地となると、池田盛周は旧功を認められ、旧領荒瀬郷古川村100石を賜り、酒田に入部した最上氏の重臣・志村光安に仕えた。盛周の死亡年は不詳だが、荒瀬川の南蓬田原に葬られたと伝えられている。
1622年(元和8年)
 最上家が改易となり、以後庄内藩や新庄藩の治世となると、池田盛周の家は帰農して長い間大肝煎をつとめたといわれている。他にも庄内を中心に帰農した家系がおり、今でも庄内地方の旧家には池田姓が見られる。中には庄内藩士となったり、上杉家臣から米沢藩士となって幕末を迎えた家系もあるという。現在、池田讃岐守の甲冑などが酒田市立資料館に展示されている(ただし常設展示ではない)。
逸話
 後世に残された文献や伝承・逸話などによると、実直かつ正義漢であり、領民には情け深い人物だったといわれる。太閤検地に反対し土一揆に加勢し、鮭延秀綱に匿われた盛周は、天下に逆らった悪役と開き直り自らを「悪次郎」と名乗り、治水のための堰を築き現地を開墾した。住民はこれを感謝し、以来その地名を「悪次郎」に変えたという。明治以降、「悪次郎」の地名は良くないので変えるように政府の役人から指導があったが、住民は地名を変えようとせず守り抜き、延長4kmにわたり築かれた堰(悪次郎堰)とともに今も真室川北西の小叉川流域に存在するという。一説によると十五里ヶ原での野戦において盛周は討死したとされている。その後、池田讃岐守と名乗る人物とどのような関係にあるのかは不明である。現在の酒田市新青渡(にいあおど)という村の言い伝えによると、池田讃岐守盛周が鮭延城に逃げる際、朝日山城の家老であった堀玄藩に、子の池田幸右衛門を預けたという。庄内に残った堀玄藩は数名の家来と共に現在の新青渡村を開墾したといわれており、現在も池田姓や堀姓の家が現存しているという。ゼンリン住宅地図で調べると、新青渡村には池田姓が数軒ありますが、池田幸右衛門の子孫でしょうか。
 
 酒田市の「新青渡村(にいあおどむら)」は、古青渡村の南西、新井田川右岸に位置する。天正年間(1573~92)の朝日山城の没落後、城主池田讃岐守の家臣・堀玄蕃ほか数名が開発したと伝える。元和八年(1622)の酒井氏知行目録では高四石余と526石余で計531石余。寛永三年庄内高辻帳の高は733石余。明暦二年(1656)の高735石余(「検毛帳」飽海郡誌)。享和三年(1803)の家数51・人数226(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。庄内要覧では免四ツ七分五厘、家数45。明治八年(1875)の戸数49、うち家持46、農業42、神官1、医者1、人数288(「戸籍帳」旧北平田村役場文書)。貞享四年(1686)草刈地の鷹尾山萱山札五四枚分として米二俵二斗八升を納入(「鷹尾山新古留帳」相馬文書)。 
 
 遊佐町史(上巻)に掲載された池田讃岐守
 
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 3  藤原仲光は摂津国(大阪)池田で「池田仲光」?と名乗った 
 日本人の祖先の殆どの家系は天皇家につながると言われますが、だからと言って、それを具体的に説明することは中々難しいものです。それが母方ながら、「平家の落ち武者」伝説や記録が残っている家系ですから、調べられるだけ調べて見ようとしています。よく「歴史の浪漫」と言いますが、祖先を通じて遠い過去の時代に想いを馳せることも夢が広がり面白いものです。
 それに、このような方々と微々たるとしても同じ血が流れていると思うだけで自信になったり、話題にもなります。また、このホームーページに気がついて、ご先祖の事を調べるヒントやキッカケにして欲しいと思っています。 更に、出羽国の日向川沿い(升田・泥沢・芹田・豊岡)に落ち延びた平家の5人兄弟の父親で、1185年の壇ノ浦の戦いで戦死した藤原仲光(なかみつ)のことをネットで調べますと、ここまで遡ることが出来ることを紹介しております。
 とは言え、真偽のほどは全く保証も責任も持てないことを、何度もお断りしておきます。
 

藤原仲光(ふじわらのなかみつ)
 藤原仲光(ふじわら の なかみつ、生没年不詳)は、平安時代中期の武士。藤原氏の流れを汲むと考えられるが、詳しい系譜は不明。一説によると藤原北家秀郷流とされるが、伝説上の人物ともいわれている。藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が、藤原南家の祖である兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。
藤原仲義(塩川仲義)、幸寿丸らの父。
 源満仲の家臣として仕え、満仲が都を離れて摂津国川辺郡多田に入部したのに伴い、同国池田の地に土着したとされ、現在の大
阪府池田市伏尾町の八幡城址は、仲光の居城跡だとする説がある。
秀郷流であったと仮定した場合、秀郷の一族を追捕している満仲がなぜその後裔となる仲光を郎党にしたのかは不明瞭だが、源満仲と藤原仲光との間に起きた「美女丸・幸寿丸の事件」を機に満仲が隠居した後、仲光は多田院(現・多田神社)の主代殿となるなど、初期清和源氏の発展に貢献したとされる。また、高野山奥之院に存在する満仲の供養塔は仲光によって建立されたものであると伝えられる。
後代、仲光は平安時代の代表的武人として伝説化され説話が残された(詳細は『美女丸伝説』を参照)。現在、清和源氏ゆかりの寺院である兵庫県川西市の満願寺や小童寺、同宝塚市の普明寺などの境内に美女丸・幸寿丸と共に仲光の供養塔が存在する。仲光の後裔を称する氏族として、出羽池田氏や多田院御家人の筆頭として知られる塩川氏などがある
逸話
 摂津国池田の地に住んだ後、池田仲光と名乗ったという説がある。以来、代々池田氏を名乗り平安末期の子孫とされる池田彦太郎秀盛兄弟の伝説が東北地方に残されている。
 
4 遊佐町豊原の「水上(みずかみ)」に伝わる平家の落ち武者伝説。 
  「平家の落人伝説」としては、九州の五箇荘・椎葉村、四国では祖谷山村など、全国には60から70ヶ所以上あるそうです。中には、小説やドラマの舞台になったり、或いは観光地として知られ、独特の風習や言葉、苗字などが伝わっていると聞きます。
 この伝説は東北には数が少なく、①青森県八戸市島守地区~平家の落人が流れ着いたと伝わり、島守弁という独自の方言が残る。②宮城県仙台市青葉区定義地区~平貞義(平貞能)が落ち延びた。③鳥海山麓(現在の酒田市や遊佐町)~平家方として落ち延びた池田彦太郎秀盛兄弟が隠れ住んだ。秀盛の後裔と称する氏が戦国時代の土豪として存在し、最上氏等の家臣となった。④福島県南会津郡檜枝岐村~平家方として落ち延びた平氏・藤原氏の者が土着し、星姓、平野姓を称した。⑤岩手県久慈市宇部町~平重盛の隠し子の兄弟が大唐の倉に漂着し、後に氏を宇部と大沢の姓を称し、野田氏に仕えた。⑥岩手県北上市和賀町岩崎新田~永和元年(1375年)平家の落人の末裔であるマタギの四郎左エ門が深傷を負わせた大白猿を追ったところ、温泉に浸かっている白猿を見つけ、白猿の湯(夏油温泉)と名づけた。⑦岩手県大船渡市日頃市町平山
 とありますが、残念ながら③鳥海山麓(酒田市)と一括りされて遊佐の地名はありません。
 これまで四回連続して「落ち武者伝説」に触れましたが、ここでは遊佐に伝わる「平家の落人伝説」としてアピールしたいと思います。とは言え、紹介する「豊原の水上」に土地勘は全くありません。下段のゼンリン住宅地図を確認すると、24軒のうち半数が「池田姓」であると分かります。この村は日向川の直ぐ北側に位置し、殆どが農家を営んでおられると見受けられます。
 先の頁で既に紹介していますが、山形県唯一の平家の落人伝説としとて、源満仲に仕えていた藤原仲光の後裔で、代々摂津国池田の地に土着していた池田源三郎快光(よしみつ)という武士が、1185年3月の壇ノ浦の戦いで戦死。その5人の息子達は鳥海山麓に落ち延びて、源氏からの厳しい探索から逃れるため別々に暮らす。長男・秀盛は土路沢(泥沢)(とろさわ)の山中に、二男は最初に辿り着いた升田の谷の奥地に、三男と四男は芹田(せつだ)に、五男は平坦な豊岡(現在の遊佐町豊岡水上)に分かれて、いずれも日向川流域に住み続けて子孫を残しています。
 5人の兄弟が遊佐郷に落ち延びた当時の庄内を考察しますと、約300年間存続した城輪柵は蝦夷を平定後は軍事施設として役割を終えつつありました。庄内平野では遊佐、大泉、櫛引の三大荘園が営まれており、この荘園に関連する豪族たちは、のちに武将として育っていく時代でした。 それに同じ頃、源義経が京都を脱すると後白河法皇からの「義経追討宣旨下る」のは1185年11月のこと。また「酒田の開祖」とされる徳尼公(とくにこう)が、源頼朝から奥州藤原氏が滅ぼされ平泉を脱し、出羽国の酒田や遊佐方面に逃れたのが1189年(文治5年)のことでした。これら時間の流れからすると、5人の兄弟が日向川流域に落ち延びたのは、義経徳尼公より一足早く出羽の地に逃れて来たと推測されます。
 5人の兄弟たちも義経追討令の中で、けっして安堵出来る環境ではなかったと思われます。 
 この豊原の水上に、証拠となる独特の風習や言葉の伝承の有無は分かりませんが、まずは、大阪の摂津国池田の地名である池田姓がまとまっているだけでも十分な伝承と思われます。
 
5 遊佐町史上巻で紹介された「平家の落ち武者伝説」の内容
   遊佐町史上巻の388頁「朝日山城主池田氏」の項目には、「この池田氏の「来歴」によれば、藤原秀郷裔、平氏負亡(1185)によって兄弟五人がのがれて当国に至って飽海郡土路沢(八幡町泥沢)に住み、のちに一人は大内目(遊佐町蕨岡)、一人は升田(八幡町)、三人は芹田(八幡町)に住んだ。初代彦太郎秀盛より芹田の地で三貫を食み、後孫が朝日山に拠城、16代の讃岐守盛周(もりちか)が天正(1573~)に至って大宝寺に従ったという。」と紹介してあります。
 その後の調査で、その5人の息子達は、源氏からの厳しい探索から逃れるため別々に暮らすことになります。酒田市八幡の光浄寺(酒田市芹田家ノ下2番)近くには、池田兄弟が別れの酒盛りをしたという「兄弟水酒盛り塚」と呼ぶ塚が残っています。そして、長男・秀盛は泥沢の山中に住み、二男は最初に辿り着いた升田という谷の奥地(玉簾の滝近く)に、三男と四男は芹田(せつだ)に、五男は豊岡(現在の遊佐町豊岡水上)に分かれて、日向川流域の川沿いに住み続け上手に土着したと見られます。それぞれ子孫に恵まれ、各村も発展し現在に引き継がれています。
 そして約388年の時が流れて、池田盛周(もりちか)は朝日山を拠城として天正(1573~)に至って、鶴岡の大宝寺義氏(武藤義氏)に従っています。更に、元和8年(1622年)最上家がお家騒動で失脚後は、代わって庄内に入った酒井家から、池田盛周は「旧・領荒瀬郷古川村100石を賜わった。」とあります。この時、盛周自身が古川村や隣の草田村に居住したかは不明です。推測ですが、古川の隣接の草田村には多くの池田姓が見られることから、自身が地頭として管理する村に、親族を呼び寄せたとの見方が出来ます。
 なお、平家の落ち武者5兄弟に(ゆかり)の人物として、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)の池田正之輔、三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬がおられます。池田正之輔(1898年~1986年)は観音寺村芹田(せつだ)出身でしたから三男か四男の末裔でしょう。
 池田盛周
は通称は讃岐(さぬき)守で、悪次郎と名乗ったこともあるそうです。本来「」は「突出した」「力の強い」という意味合をもつそうですから、この意味からすると、池田正之輔や池田成彬は本当の悪太郎でしょう。尚、本楯・草田の池田家は、升田に残った次男の末裔であることが有力です。
 
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6  野沢の「龍沢館」の館主がタヨサマの祖先だった当時のこと。 
 「野沢の歴史」の頁に、(南北朝時代の)1345年貞和2年、野沢の「龍沢館」に藤名佐衛門なる人、京より下り「都殿様」と称して館主となり、その子孫が220年間ここに居住した。1567年(永禄10年)「龍沢館」藤名五郎左右衛門の代に仁賀保の加茂氏に攻められ、520年にわたる龍沢館の歴史を閉じる。藤名五郎左右衛門の孫、寅松より藤名の姓を隠し「佐藤兵部」と改め、以後、龍沢山「御嶽神社」の社家(太夫様・タヨサマ)として今日に続いている。と記載しています。当然、この当時の周辺地域の概要も気になりますから、まずネットで調べますと、
 酒田市立資料館のホームページ
 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」に記述がありますから、そのまま引用させて頂きます。
 「各地の事例と同じく、庄内地方に住んだ地頭(役人)は権力を集め、さらに武力をつけて“武士”になった。この代表格が大宝寺(現在の鶴岡市)に住んだ「武藤氏」である。大泉氏、大宝寺氏などとも呼ばれ、12世紀末から庄内に住み、一大勢力となった。
 武藤氏の一族から「砂越氏」が登場する。庶族でありながら本家に匹敵する力をつけ、長い期間争った。新田目に住んだ「留守氏」は、平安末期の1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)に起こった「後三年の役」ののちに出羽国にとどまった人物の家系とされる。朝日山城主「池田氏」は、平家に仕えた先祖が矢流川に逃れて城を築いたと伝えられ、現在も家系は続いている。
 池田讃岐守盛周は、朝日山城(現在の酒田市生石地区楯山)に住んだ土豪である。先祖が南北朝期に城を築き、室町期に武藤氏の配下となった。江戸末期ごろまでは堀や庭園の痕跡が残っていたそうだが、今は藪に覆われ確認はできない。周辺に多くの領地をもち、そこで暮らす農民たちは池田氏のもとで家臣団を形成し、「朝日山五十人衆」と呼ばれた。武藤氏の滅亡後、太閤検地に反発する一揆に参加。敗北し、城を捨てて真室川城・鮭延氏のもとへ逃れる。この一揆で城裏手の修験の地・鷹尾山も廃止となった。慶長出羽合戦が起こった慶長5年、反上杉派として庄内に戻り、小規模な反乱を起こしたが、これは上杉軍に一掃されてしまう。池田盛周は再度隠れ、慶長6年に最上義光が庄内を掌握すると、旧領荒瀬郷古川村100石を賜わり、志村伊豆守配下となった。近世初期には帰農し、肝煎となったのである。」
 とあります。
 
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7 平家の落ち武者5人兄弟が辿り着いた「玉簾の滝」
 酒田市升田の「玉簾の滝」は約1,200年前、弘法大師が神のお告げにより発見し、命名したとされる山形県随一の高さ63m、幅5mの直瀑です。落差63mの玉簾の滝は出羽丘陵の一角にあります。北西を向いているので太陽高度や日差しによっては滝の飛沫が玉簾のように見える時があります。かつては山岳宗教の修験場であり、滝の前には御嶽神社が祀られています。と酒田市HPで広報していますが、「平家落ち武者伝説の里」には触れていません。別の資料には、落ち武者伝説は証拠が薄いような記述もありましたが、それなら弘法大師のお告げにより「玉簾の滝」を発見し名付けた証拠はあるのかです。伝説の殆どはその家や地域に伝え継がれた説であり、事件の捜査などで裁判所や警察が探すような証拠を出せと言われたら難しいものがあります。
 さて、私の母親は殆どが池田姓の酒田市本楯の草田生まれで、遊佐町野沢に嫁いでいます。
 私が高校生になったころ、酒田市役所勤めだった母方の祖父からは、「この家は、平家の落ち武者で八幡の更に奥の升田玉簾の滝”近くの池田家からの分家に当る。」と聞いています。平家の落人伝説は東北では少なく、山形県内では、この話が唯一の平家の落ち武者だそうです。
 ここからは主にネット情報になりますが、源満仲に仕えていた藤原仲光の後裔で、代々摂津国池田の地に土着していた池田源三郎快光(よしみつ)という武士が、平清盛の死後、頼盛に仕え、伊勢平氏の一門として「一ノ谷の戦い」に参戦し敗れ、続く、元暦2年/寿永4年(1185年)の「壇ノ浦の戦い」で戦死。その5人の息子達は鳥海山麓の日向川沿いに落ち延びて、兄弟五人が一緒では源氏の追い打ちに遭った際に全滅する恐れがあるため別々に暮らすことにしたのでした。長男・秀盛は泥沢の山中に、二男は最初に兄弟が辿り着いた升田という谷の奥地に、三男と四男は芹田(せつだ)に、五男は平坦な豊岡(現在の遊佐町豊岡水上)に分かれて住みました。いずれも日向川流域に住み続け、上手に土着したと見られ、それぞれ子孫に恵まれ、各村も発展し現在に引き継がれています。
 その後の、南北朝時代も戦国時代もなんとか乗り切って、子孫を今につないでいます。また、酒田市八幡の光浄寺(酒田市芹田家ノ下2番)近くには、池田兄弟が別れの酒盛りをしたという「兄弟水酒盛り塚」と呼ぶ塚があります
下段の地図は升田ですが池田姓が多く見られます。玉簾の滝の入口近くの「池田バラ園」にはいつか訪問したいものです。
 
 
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8  平家の落ち武者は玉簾の滝より上の「鶴間池」に辿り着いていた
 平家の落ち武者5人兄弟が辿り着いた終点は、八幡町(現在酒田市)升田の「玉簾の滝」と思っていたら、まだ先の「鶴間池」まで行っていました。
 「鶴間池は、八幡の北東、鳥海山南側の標高780mに位置し、地すべりによって生じた水域で、周辺にあるブナの自然林の景観と調和し、神秘性をたたえている。 また、山形県内では、モリアオガエルが最も多く産卵する地域であり、6月中・下旬には産卵が見られる。」と鶴間池には準絶滅危惧種として「モリアオガエルの生息地の保護を目的とする。」との記事がありました。鳥海山登山は10回くらいあり「湯ノ台口」コースも二回ありますが、このコースの最寄りに「鶴間池」があることは知りませんでした。
 最近では、鶴間池は火口湖だとする意見もあるそうです。
 また、鶴間池全体を上から眺めたい方には、通称「のぞき」と呼ばれる場所もあります。
 八幡町(現在酒田市)の「鶴間池」に関連していろいろ調べますと、「黒百合姫伝説」という悲しい恋の物語など幾つかの伝説があることも知りました。ここでは次の二点をご紹介します。
 「やはたの今昔」として、八幡町文化財保護審議会の佐々木有恒会長の手記を見つけました。
 文字起こしをしますと「鶴間池の伝説」鶴間池の名前の由来の伝説は諸説いろいろとありますが、今回は「鶴子姫伝説」と「弓の弦伝説」をご紹介します。
 【鶴子姫伝説 】
 永保3年(1083年)奥州藤原氏に内乱があり、内乱は奥州一円に広がりました。それを鎮めるために、八幡太郎義家達が当地に参り、升田に一夜の宿をとりました。その時義家の疲れを癒し、慰めてくれたのが鶴子姫でした。義家達は、再び戦場に向かうことになりました。別れがたい鶴子姫は、戦場に同行を願い出たが、かないませんでした。鶴子姫は悲しみのあまり、池に身を投じました。その後池の名前を「鶴間池」と云うようになりました。
 【弓の(つる)伝説】
 文治元年(1185年)壇の浦の戦いで敗れて逃げた平家の侍達が、この地までやってきました。池のほとりで目の前の鳥海山を見上げて、鳥海山があまりに高いのに圧倒され誰もこれ以上先に進めないと思いました。そこで侍たちは弓の弦や弓矢を池に捨てて、麓の地に住み着くことになりました。そこでこの池を(弦)鶴間池と呼ばれるようになりました。

 八幡町(現在酒田市)には、凄い伝説が伝わっていることを知りました
 「八幡太郎」の名で知られる源義家が、父頼義とともに奥州で起きた乱(前九年の役1051~1062)を鎮めました。その帰途、康平5年(1062)戦勝祈願成就の報賽として、けやきの苗1000本を府中の大國魂神社に奉納したことが、けやき並木のはじまりと伝えられています。この像は、前九年の役,後三年の役で卓抜した武勇をあらわしたと伝わります。『吾妻鏡』によれば「前九年の合戦」は、源頼義の陸奥守赴任から安倍氏滅亡までの12年間であったことから、「十二年合戦」と呼ばれていました。主な古戦場は、秋田県横手の沼柵跡と金沢柵です。八幡の升田からは鳥海山を回って湯沢方向に抜けたのでしょうか。
 
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9  遊佐町の小松家は平家の落人出身といわれる小松周輔(しゅうすけ)
 日向川流域に落ち延びた平家の落ち武者5兄弟に(ゆかり)の人物として、衆議院議員(10期)、科学技術庁長官(第9代)の池田正之輔(1898年~1986年)、三井財閥筆頭常務理事、大蔵大臣などを務めた池田成彬(しげあき、1867〜1950)、長男の池田成功(1902-1971)は日本園芸(株)取締役、二男の池田潔(1903年10月4日~1990年3月14日)は英文学者、評論家、慶應義塾大学名誉教授がおられます。池田正之輔は観音寺村芹田(せつだ)出身でしたから三男か四男の末裔でしょう。また、戦国時代の池田盛周は通称は讃岐守(さぬきのかみ)で、悪次郎と名乗ったこともあるそうです。
 本来の「悪」は「突出した」「力の強い」という意味合をもつそうですから、この意味からすると、池田正之輔や池田成彬、池田成功らは本当の悪次郎でしょうが、更に、悪次郎と呼んでいい方を加えますと小松周輔がおります。
 荘内日報社は小松周輔のことを、このように知らせています。
 小松周輔(しゅうすけ)は、
 
医師、儒学者。寛政10年酒田町鍛冶町に生まれる。小松家は平家の落人といわれ、小松家の過去帳によると先祖は草津村(現・酒田市八幡地区)に住み、小松村(現・遊佐町)を開発。のちに酒田に移住し、代々治郎兵衛を名乗り鍛冶を業とした。周輔は8代目、鍛冶職は二女の直世に婿を迎えて継がせた。酒を好んだが、酔って寝ている間に近所で火災があり、その時父母を介抱できなかったとして以後終世酒を絶った。周輔は明治7年4月4日、77歳で亡くなった。
 とあります。草津は平家の落ち武者に縁の地は升田の北に隣接ですから、きっと母方が草津に嫁いだ家と思われます。我が家も似たような関係なので、少々こだわって関連する情報を集めて配信していますが、そろそろネタ切れの状況も見えてきました。
 
 
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 10  焼き畑農法の「升田かぶ」は平家の落ち武者が伝えたか
 平家の落ち武者や平家の落人と呼ばれる平家一門は、頼朝の追討命令により人里離れた山奥に逃げざるを得なかったのでしょう。「日本三大秘境」は、岐阜県の白川郷、宮崎県の椎葉村、徳島県の祖谷地区といわれ、共通しているのが、平家の落ち武者伝説が残っていることです。いずれも、近代的な開発から取り残されたような山深い地域ながら、豊かな自然と独自の伝統文化が残る集落は、近年では観光スポットとしても注目されています。きっと、過ぎ去った時代や時間、過去を懐かしむ「ノスタルジー」を感じる場所として評価されているハズです。
 更に、共通しているのが焼き畑農法が残っていることです。椎葉村では焼畑で菜豆腐やソバのだんごを入れた「わくど汁」などの郷土料理が知られ、白川郷では焼き畑を「ナギ」とか「ナギ畑」と呼び、 祖谷地区では傾斜地を利用した焼き畑でソバ・アズキなどのが栽培されているそうです。
 さて、鳥海山の南麓、酒田市升田地区(飽海郡八幡町)では焼畑のことをカナと呼ぶそうで、このカナで栽培する升田かぶカナカブと呼ぶことを知りました。升田カブは、青首ダイコンを小さくしたような形で、根の下部は、やや膨れ曲がっています。詳しい来歴は不明のようですが、昔、源平合戦に敗れた平家の落人が携えてきたものではないかとの説もあるそうです。この地区の人達は、幼い頃に食べた升田かぶの軟らかく、とろけるような食感と味が忘れられずに栽培を再開していたもので、「昔はよく、鯨汁や兎汁などにして食べていた」と語っています。
 何度も繰り返していますが、八幡の更に奥の升田玉簾の滝”辺りから日向川流域は、山形県内では、唯一の平家の落ち武者伝説の伝わる地域です。
 この平家の落ち武者伝説は、源満仲に仕えていた藤原仲光の後裔で、代々摂津国池田の地に土着していた池田源三郎快光という武士が、1185年3月の壇ノ浦の戦いで戦死すると、その5人の息子達は鳥海山麓に落ち延びています。長男・秀盛は土路沢(泥沢)(とろさわ)の山中に、二男は最初に辿り着いた升田の谷の奥地に、三男と四男は芹田(せつだ)に、五男は平坦な豊岡(現在の遊佐町豊岡水上)に分かれて、いずれも日向川流域に住み続けて子孫を残しています。
 この日向川流域も、「平家落ち武者伝説」の仲間に入れて上げたら貴重な観光資源になって、玉簾の滝もより知られ、升田カブの栽培も販売も、それなりに評判になりそうです。

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11  酒田市升田区の地域活性化に関する調査研究」温井亨(抜粋)の紹介
  調査は平成25年(2013)度のようですが、これからすると酒田市八幡総合支所建設産業課も地域の活性化を真剣に考えていることを知りました。調査は 2013年度ですから、それから10年以上経過しています。このような調査研究を行なったなら、その後の結果も検証する必要もあります。果たして、酒田市升田では、どんな意見を採用し、どんな結果が現れたのでしょうか。特に「池田バラ園」を経営される池田家の話題が多くありましたのでご紹介致します。
 
 本調査研究は、酒田市八幡総合支所建設産業課からの委託によるものである。
 委託の趣旨は以下のようなものであった。まず対象地域の升田は、平成12(2000)年にから玉簾の滝のライトアップに取り組み、相当数の観光客が訪れるようになるなど、地域づくり活動に成果を上げてきた。しかし、人口減少と高齢化の結果、活動の継続が困難になりつつあり、担い手の若返りを図る必要がある。それを実現するにはどうしたら良いか、検討してもらいたいというのが1つ目の委託理由である。次に、玉簾の滝を目当てに観光客は訪れるようになったものの、ただ滝を見て帰ってしまう。これでは、ライトアップに費用と労力がかかるだけで集落にメリットがないし、活動継続の意欲も起きない。これだけ来るようになった観光客にいかに金を落してもらうか、その検討が2つ目の委託理由であった。 それから3つ目として、滝の入口に整備された駐車場の産直施設「ららら」がある。産直施設はできたのだが、集客に十分成功しているとは言えないからである。「ららら」の売り上げを伸ばすにはどうしたら良いか、それが3つ目の委託理由である。
 池田みつ子さん
 池田みつ子さんは、毎回お世話になっている池田善幸さんの奥様であるが、(2013年)2月にお宅に伺って初めてお会いした。伺った理由は、不登校の子に、親子で滝の里ふれあい館に住んでもらい、自然豊かな環境で生活するうちに社会に復帰できるようになる、そうしたプログラムを温めていると聞いたからである。みつ子さんは小学校に勤め、校長の経験も長い。定年を迎えた今、教師仲間とこうしたフリースクール兼暮らしの場を、升田につくってみたいと考えている。さて、せっかく整備されたのにほとんど使われていない滝の里ふれあい館の活用計画としてたいへん興味深いものであるが、当日私が惹かれたのは別の話だった。それは家の前の道を、その先の畑に行くためにおばあちゃん達が通るので、その目に見える範囲を美しく綺麗にしようと色々やっているという話である。余計なものは取り除き、ゴミを片付け、草取りをし、生け垣の剪定をする、そうした作業である。私が感心し、興味を覚えたのは、これは芸工大の学生達が升田で感動したものに挙げている住宅や庭、家並み、曲がりくねった道そのものだからである。実はその話を聞く前から伏線はあったのだ。まず、生け垣の続く道が雰囲気のある魅力的な道だったこと、そして門の前に立ち屋敷を一望したとき、まず感動した。なんと立派で美しい屋敷構えだろう! そこには正面に母屋があって、その前には農家特有の南側の広い庭があり、両側には付属屋が控え、庭木や屋敷林と一体になった素晴らしい風景があった。そして家の中に入り、応接間に通されると、これもまた素晴らしい建築である。天井が一段高く、縦横に飛ぶ梁が見えている。こういうつくりは、富山県の民家で一度見たことがある。富山ではそれを呼ぶ呼び名があったはずだが思い出せない。建具もケヤキの一枚板を使った立派なものが3面に入っているのだが、
 
 感動の理由を分析すれば以下のようになる。第一に挙げなくてはならないのは、住人が建築の魅力をよく理解して大事に維持管理し、傷めば丁寧に修復し、そして行きとどいた掃除が為されていること、そしてそうした空間で暮らすことに喜びを感じ楽しんで暮らしていることである。そうした空間に招き入れられるので、客は感心するし居心地が良いのである。ソファーから外を眺めると、庭から玉簾の滝まで見えると言う素晴らしい風景が広がっていた。それは、そのために床から内法まで1枚のガラスでできたサッシを選んでいるからである。要するに、全てが美しく魅力的に設計され、整えられているのだ。そして、それを行っているのは奥様のみつ子さんだろうと推察する。玄関から左側は現代的に直したと言うが、帰りにチラッと覗くと、これはまた現代的で快適な生活ができる美しいダイニングルームであった。自分の住んでいる環境を見つめ直し、評価し、そして美しく整えること、それは升田の魅力を発見すること、住み続ける意味を見出すことの第一歩である。学生たちに池田さんの屋敷を見せれば、自分もこんなところで暮らしてみたいと言うだろうと思われる。まずはそうしたところから、升田の村づくり、村の存続について考える必要があると思うのである。次年度の演習では、学生たちに道の掃除をさせよう。 
 
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11 庄内地方における在来カブの種類とその利用方法(抜粋)(工事中)  
 
 升田カブは、前述したように、昔、源平合戦に敗れた平家の落人が携えてきたものではないかと言われています。

(2)升田のカナカブ(写真2)
a)形態的特徴
鳥海山の南麓,酒田市升田(旧飽海郡八幡町)で栽培される.現地では焼畑のことをカナと呼ぶ.かつてこのカブをカナで栽培していたことからカナカブと呼んだり,ただカブと呼んだりする.升田のカブは,直径4cm程度,長さ15~20cm程度で,青首のものとそうでないものが混じる.根部(カブの葉のつけ根以下の肥大部分は,組織学的には胚軸および根で成り立っているが,本論文では,簡単に説明するため,その部分を根部と呼ぶことにする)
の下部は,やや膨れるものと膨らまないですっと伸びるものがある.カブの肉質は軟らかく,抽根性が大きく,地上部が折れ曲がって地面を這うように成長する.ここ升田では,少なくとも100年以上前から栽培されているようであるが,来歴は不明である.
b)食べ方
 カブは,塩鯨でだしを取り,みそで味付けした前述の「蛸煮」にしたり,漬物にして食べる.
c)栽培方法
数年前まではカナで栽培されていたが,現在では普通畑で栽培され,収穫は10aあたり700kg~1tである.普通畑の栽培でもカナの時と同じように畝立てをせずに,種子をばら播きにする.播種後は,覆土をすると探すぎるため,木の枝でさっとなでる程度である.
d)栽培の現状
近年まで3軒の栽培農家を確認できたが,2006年には,普通畑で栽培する1軒のみになった。 
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12  平家の落ち武者の末裔朝日山城主・池田氏の寄進物・愛用品(工事中) 
 朝日山城主・池田氏の寄進物・愛用品
池田讃岐守盛周は、朝日山城(現在の酒田市生石地区楯山)に住んだ土豪である。先祖が南北朝期に城を築き、室町期に武藤氏の配下となった。江戸末期ごろまでは堀や庭園の痕跡が残っていたそうだが、今は藪に覆われ確認はできない。周辺に多くの領地をもち、そこで暮らす農民たちは池田氏のもとで家臣団を形成し、「朝日山五十人衆」と呼ばれた。武藤氏の滅亡後、太閤検地に反発する一揆に参加。敗北し、城を捨てて真室川城・鮭延氏のもとへ逃れる。この一揆で城裏手の修験の地・鷹尾山も廃止となった。
慶長出羽合戦が起こった慶長5年、反上杉派として庄内に戻り、小規模な反乱を起こしたが、これは上杉軍に一掃されてしまう。池田盛周は再度隠れ、慶長6年に最上義光が庄内を掌握すると、古川村を与えられ、志村伊豆守配下となった。近世初期には帰農し、肝煎となったのである。
田市指定有形文化財 革包日の丸
丸胴具足(桃山期 矢流川八幡神社寄託)朝日山城主・池田讃岐守盛周の所用と伝えられる具足。兜についた五輪型前立は、死を覚悟して戦に挑む武将に好まれたモチーフである。刀と同じく、池田氏の子孫によって矢流川八幡神社に奉納された。

刀(上段)・太刀(下段)
池田氏の子孫により、矢流川八幡神社に奉納された。刀は室町時代のものと考えられ、太刀は江戸時代のものであるという。

刀…無銘
太刀…(表)武蔵守藤原兼中(裏)越前住(注)本来、太刀の飾り方は刃が下になるが、今回のように打刀と共に飾る際は、打刀の向きに合わせる。また、下段の太刀は銘の向きを考えると「刀」だが、太刀拵えであるため「太刀」としている。
(注)本来、太刀の飾り方は刃が下になるが、今回のように打刀と共に飾る際は、打刀の向きに合わせる。
また、下段の太刀は銘の向きを考えると「刀」だが、太刀拵えであるため「太刀」としている。
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13 平家の落人とは(工事中) 
平氏と源氏のはじまり 
 源氏(げんじ)も平氏(へいし)も、皇族が臣下の籍に降りる「臣籍降下」の際に天皇が源氏(げんじ)や平(たいら)の氏を授けたことにはじまります。平氏の祖は794年平安京に都を移した桓武天皇(嵯峨天皇の父)であり、源氏は嵯峨天皇(786~842年)以降に現れたものでした。当時の天皇は一夫多妻の時代で、子供が何十人もいたので全員を皇族として養うことが出来ず、多くの子供達が皇族を離れ一般人として「臣籍降下」させた時代でした。臣籍降下して、初代、二代目くらいまでは上流貴族として朝廷での地位を保証されましたが、実際には三代目以降は殆どが没落して地方に回され、そのまま土着し武士や豪族となる例が多かったそうです。
武士の誕生
 武士が誕生
したのは平安時代後期といわれ、荘園の自衛のため武装した集団が「武士」であり、やがて平氏源氏という2大勢力へと成長を遂げたと一般的に言われています。更に、武士がより力を付けて台頭したキッカケは、東北地方で豪族同士の勢力争いで 前九年の役(1051~1062年)、後三年の役(1083~1087年)と呼ばれる争いでした。朝廷は陸奥の安倍氏を制圧するために、武士の源頼義を派遣しています。 そして、奥州藤原氏を助け、この争いを平定したのでした。しかし、安倍氏は戦上手な豪族で簡単には倒せず、その後、頼義の息子で八幡太郎と呼ばれた義家や出羽の豪族・清原氏の援軍を得たことで、最終的に安倍氏を滅ぼし源氏繁栄の基礎を築いています。源氏の名を天下に知らしめた風雲児・八幡太郎義家であり、一方、西国でも平氏の世を着々と準備していた平正盛・忠盛、更に全盛期を築いた平清盛が育っていました。
 しかし、源平の戦いは、平安時代末期に起こった平氏政権に対する内乱です。 「源氏 vs 平氏」の戦いとして、平清盛を中心とする平家の政権に不満だった源氏の武士が源頼朝を中心として平家を討ち、鎌倉幕府を樹立するという流れの見方が一般的です。

源氏・平氏の歴史

源氏の台頭から以仁王の挙兵まで

1028-1031年 平忠常の乱
平将門の乱(935-940)に続く関東の大乱。甲斐守源頼信によって鎮圧され、源氏の関東進出のきっかけとなる。
1051-1062年 前九年の役
源頼義(源頼信の子)によって征討された奥州での戦い。奥州十二年合戦とも呼ばれるが、前九年の役が一般的な呼称である。
1083-1086年 後三年の役
源義家(源頼義の子)によって鎮圧されるも、朝廷からは私戦とみなされる。この後、奥州藤原氏が台頭する。
ここで義家の弟・義光も活躍しており、義家の子孫と義光の子孫が、後の源氏の活躍・繁栄の中心となる。
1108年 義親の反乱
源義親(源義家の子)が起こした反乱を平正盛(平清盛の祖父)が鎮圧し、伊勢平氏台頭のきっかけとなる。
1109年 義忠暗殺
源義忠(源義家の子)暗殺事件が発生。
黒幕は源義光とされるが、犯人は義家の弟・義綱に仕立てられ、源為義らに討たれる。源氏の内訌の始まりとなる。
1155年 河内源氏の内訌
源義賢(源義朝の兄弟)が源義平(源義朝の子)に襲撃され、討取られる。
義賢の子・仲家は摂津源氏の源頼政が育て、もう一人の子・義仲は木曾で育つ事となる。
この事件後、直ちに源頼賢(源義賢の弟)が挙兵し、命を受けた源義朝が討伐に向かうも、頼賢の軍は解散する。
1156年 保元の乱
朝廷の内紛が発生。源氏・平氏とも一族割れて戦う。平清盛と源義朝がついた勢力が勝者となる。
源氏は、前年の襲撃事件での対立構図がそのまま現れ、義朝は父・為義や他の兄弟達と対立する。合戦中の義朝と為朝とのやりとりが有名。
1159年 平治の乱
再び政変が発生。複雑な勢力構成であるが、平清盛が参加した陣営が勝利し、源義朝側は敗北する。因みに、完全に源平に分かれての戦いではない。
源義平(源義朝の子)が暴れまわる話しが有名だか、親子共討たれてしまう。源頼朝(義朝の子・当時13才)もこの時捕らわれ、伊豆に流される事となる。
1177年 鹿ケ谷の陰謀
平家打倒の計画が発覚。平家物語では摂津源氏・多田行綱が平家への密告役として登場。
1180年 以仁王の挙兵
以仁王が挙兵。摂津源氏の源頼政が呼応するも鎮圧される。
この時の令旨とされるものを新宮行家が持ち回り、平家に対する全国的な挙兵活動へ繋がっていく。


治承・寿永の乱(1180-1185年)

1180年 頼朝、甲斐源氏の挙兵

■頼朝の挙兵
源義朝の子・頼朝が挙兵。

■富士川の合戦
平維盛率いる平家の追討軍を、甲斐源氏が撃退。

■南都焼き討ち
平重衡らが奈良の興福寺などを焼き討ち。

1181年 清盛の死と義仲の挙兵

■墨俣川の合戦
平知盛率いる軍が編成され、近江の山本義経を撃破。続いて新宮行家の軍も撃破。その後引き返す。

■義仲の挙兵
源義賢の子・義仲も信濃で挙兵。越後の城氏を破る。

1182年 全国的な飢饉

■養和の飢饉
全国規模の大飢饉が発生し、どの勢力も大きな行動をとれない年となる。

1183年 義仲の入京

■倶利伽羅峠の合戦
平維盛らに率いられた討伐軍と義仲軍が激突し、義仲軍が勝利する。

■義仲入京
木曾義仲が、新宮行家、志田義広、山本義経らと入京。

■水島の合戦
義仲入京に伴い都を落ちた平家が、西国より再起。備中水島で義仲軍を撃破。

■室山の合戦
水島での勝利に続き、行家の軍も続けて撃破。

■法住寺合戦
窮地に陥った義仲は、後白河法皇を幽閉。仲間割れが発生し、両陣営へ分かれて戦う。

1184年 頼朝軍の上洛

■瀬田/宇治川の合戦
頼朝の軍と義仲の軍が激突するも、多勢に無勢。義仲軍は敗れ、粟津の地で討たれる。

■一ノ谷の合戦
義仲軍を撃破した頼朝軍は入京し、一ノ谷で平家軍を破り退却させる。

■三日平氏の乱
「三日」とはいっても伊勢を中心に長く続いた大規模な反乱であり、頼朝方も多くの被害を出した。

1185年 平家の滅亡

■西国・九州での戦い
源範頼率いる軍が平家方を破り、西国、九州へ進むものの、兵糧不足で進撃も停滞してしまう。

■屋島の合戦
河野水軍と戦う為に平家方の主力が向かった留守中、義経郎党が四国へ渡り屋島を襲撃。平家方は包囲される事を警戒したのか退却する。

■壇ノ浦の合戦
頼朝と平家の最終決戦となる。

平家の落ち武者の発生 
  平家の落人は、治承・寿永の乱(源平合戦)で敗北した結果、山間部などの僻地に隠遁した平家側の敗残兵などの生き残りである。平家の一門やその郎党、平家方の戦いに与した者が挙げられる。平家の落武者ともいうが、落人の中には武士に限らず公卿や女性や子供なども含まれたため、平家の落人が一般的な呼称である。こうした平家の落人が特定の地域に逃れたという伝承が残っており、俗に「平家の落人伝説」という。
 今日、日本各地において平家の落人伝説が伝承されている。源氏と平家とが雌雄を決した源平合戦(一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いなど)において平家方が敗退する過程で発生した平家方の落人・敗残兵が各地に潜んだことから様々な伝承が伝えられるようになった。平家の落武者と呼ぶ場合もあるが、落ち延びたのは武士だけではないため、平家の落人と言われることが多い。平家の落人が潜んだ地域を平家谷、平家塚、平家の隠れ里、平家の落人の里などという。
平家の落人伝承にある誤解としてよくあるのが、平家の落人の末裔が即ち平家一門の末裔であるという混同である。確かに平家一門が落ち延びたという伝承も少なくはないが、平家の落人という呼称が意味するものは「平家方に与して落ち延びた者」であり、平家の郎党の場合もあれば、平家方に味方した武士の場合もある。
 中には、創作や脚色された信憑性の薄い伝承や誤伝に基づく話もある。戦において落人が発生することは珍しくはなく、平家の場合も例外ではないが、該当する家系と姻戚関係となった間接的な血筋までも平家の落人を称する場合があり、口伝を基本とする平家の落人伝承が誤伝したり曖昧になりやすい側面もある。
 後に平家の残党が起こした三日平氏の乱やかつての平家方城助職の起こした謀叛などをみても、平家の落人が存在した事自体は間違いないが、元々が逃亡、潜伏した者であるため、歴史学的に客観的な検証が可能なものは少ない。学界で平家落人を研究したのは柳田國男・松永伍一・角田文衛らであるが、証拠があまりにも少なすぎるために推測を交えざるをえないことから、学者の間でも説が食い違うことはよくある。以下の平家落人集落の比定でも、ある学者は平家の落人の存在を肯定するが、別の学者が否定しているケースも少なからず存在している。例えば柳田が全否定した沖縄の南走平家については、奥里将建や大川純一など、沖縄の郷土史家の間では肯定的な意見が強い。角田が肯定した対馬宗家の平家末裔説も、他の学者は否定的である。といった具合である。
問題をややこしくしているのが、柳田や松永が指摘している平家落人伝説捏造説である。例えば、ある地方の平家伝説は安土桃山時代に突然発生したものである。柳田の調査によれば、この時期に近江の木地師集団が領主から命じられてその地域に入植している。木地師は木地師文書と呼ばれる、自己の正統性を主張するための宣伝文書を創作するのに長けた人々であった。木地師はその土地に伝わっていた話を元に、平家物語等に依って平家落人伝説を捏造したのではないかと柳田は考察している。これらの後世の捏造文書が非常に真実の探求を妨げているのである。
 
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