昭和33年4月10日頃、旧・都立墨田産院で発生した新生児取り違え
から、江蔵智(えぐらさとし)(67)さんは親から「親に似ていない」と言われ虐めを
受けて育つ。世の中には理不尽な事が多すぎますが、この新生児
取り違えも、その典型です。江蔵さんのお母さんには実の子が、
智さんには実の家族が早期に見つかることを願っております。
 
取り違えの内容 江蔵智さんの近影 裁判記録から 報道記録から
生児取り違えの内容(内容は主にネット上からです。)
■1958年に出生後、新生児の時に取り違えられた江蔵智(えぐら・さとし)さんが、生みの親を特定する調査などを都に求めた訴訟の判決が4月21日、東京地裁でありました。平井直也裁判長は「生物学上の親を調査すべき義務がある」として都に調査を命じたことで、ようやく動きだしています。
■近年では、取り違えの絶無を期して、赤ちゃんには識別のため腕輪・足輪のようなものを取付けていますが、それ以前は、何も付けずに実に雑な扱いだったようです。厚生労働省やこども家庭庁は新生児の取り違えの件数を調査していないが、法医学者が1973年にまとめた論文では、江蔵さんが生まれた1958年を含む1957〜71年に、全国で少なくとも32件の取り違えがあったと報告されています。
江蔵(えぐら・さとし)さんは、「育ての親、弟と共に浅草で育ちました。ずっと自分の居場所がないと感じていました。容姿、テレビを観て笑うところ、食べ物の好き嫌い、すべてが家族と違う。決定的なのは身長で、私は180pを超えていますが、母は140p、父も弟も160p前後しかない。都の職員(都電の運転士)だった父(薫・ただし)も私に対する違和感を抱いていたんでしょう。何かあるたびに私は殴られていましたが、弟は一度も殴られたことがなかった。」「ここは自分がいるべき場所ではない」と、14歳で家を飛び出した。友人の親が営む飲食店に転がり込み、中学校にもほとんど行かず働き始める。おしぼり屋、トラックドライバー、建設業、製本業など職を転々。ほぼ休みなしでがむしゃらに働いた。20代で結婚したが、2年で離婚した。「愛された記憶が薄く、家庭の作り方が分からなかった」と江蔵さんは語っています。調べるキッカケは、入院した母の血液検査。母親はB型と知ったことでした。父はO型。江蔵さんはA型で、両親からは生まれることがないはずの組み合わせでした。
■東京都は、裁判の結果を受けてようやく重い腰を上げて動き出しています。江蔵さんは、「ルーツを知る権利は当たり前にあるはず。想像もつかない違った人生があっただろう」、「実の親はどんな人なのか、兄弟や親戚から話を聞きたい。出自を知ることで自分の心は洗われる」と、そして、「相手の方が名乗り出ることを拒んでいるなら、遠くから見るだけでも見たい」、「育ててくれた母親のためにも真実の子を一目でも見せてあげたいとも思っています。」と語っています。裁判結果を受けて東京都は調査を開始したところ、江蔵 ( さとし ) さん(67)と同じ
1958年(昭和33年)4月に同区で生まれたのは230人で、男性は113人だと判明したと調査の基本的な数字を公表しています。67年を経過し、転出入も多い地域でしょうが、都は本気を出して調査に必要な人員を専従させて、早期にそれぞれの家族を特定して欲しいものです。
■都では当時は出生届を子の出生地に出す規則だったから絞られています
 江蔵さん家族は当時、台東区に住んでいましたが、都の職員(都電の運転士)だった父(薫)は「都立病院なら(出産)費用も安い」と上司に助言されて、隣接する墨田区の産院を利用しています。そして、墨田区は業務の遂行に「相当の理由がある」などとして開示しており、都は開示の決定を江蔵さんの代理人に伝えています。
 なお、都は調査のため専従職員2人を増やしたそうで、都立病院支援部の浜崎省吾調整担当課長は、「調査対象者との最初の接触で断られるとその先のステップには行けないので、このタイミングが一番重要だと考えている。相手方にも親や家庭があり、生活があるので、できるだけ心理的な負担がないように心情に配慮した丁寧な対応が必要だ」と話しています。
育ての親となる江蔵チヨ子(昭和7年11月5日生)さんの証言です。
 産院では通常、母親は1日2回ほど、授乳の際に新生児室のわが子と顔を合わせる。ただ、江蔵さんの母は母乳が少なく、看護師が代わりにミルクを与えていたため、わが子の顔を見る機会はほぼなかったという。出産から4日ほどたった頃、看護師が「へその緒が取れた」としてAさんの母の元に連れてきたのが、江蔵さんだった。「取り違え」の発端だったとみられる。元気なころは「私が産んだ子どもがどうなっているのか、一目でいいから会ってみたい」と話し、実の息子に会えることを待ち望んでいた。江蔵さんの母も父も江蔵さんをわが子と信じ、そのまま退院した。父は名前を「智」と決め、出生届を墨田区役所に提出。長男として育てられ、その後に生まれた弟と共に台東区で暮らした。
都立墨田産院で女の子を出産した女性の証言
 看護師が赤ちゃんを沐浴に連れて行ったあと、“はい、終わりましたよ”と手元に戻されたのが、なんと男の子だった。女性があわてて“私が産んだのは女の子よ!”と言ったことで、事無きを得たというのだ。ずさんな管理体制であったことは想像に難くない。江蔵さんは一層取り違えに対する確信を強くしたそうです。
 
蔵智さんの近影 
 
小学生当時の江蔵智(えぐら・さとし)さん 
 
 
 
 
 裁判記録から引用
(1)当事者
 ア 原告は、昭和33年4月10日頃に本件産院で生まれた男性(江蔵智)である。
 イ 被告は、本件産院を設置・管理していた地方公共団体(東京都)である。
 ウ 本件産院は、昭和63年(1988年)3月31日に閉院された。
(2)本件取り違え
 本件産院において、昭和33年4月10日から同月14日頃までの間に、原告の戸籍上の母親である江蔵チヨ子(昭和7年11月5日生まれ。以下「チヨ子」という。)が昭和33年4月10日に分娩した新生児、(男性)と、同時期に本件産院で出生した原告が入れ替わる事件(以下「本件取り違え」という。)が発生した。原告とチヨ子は、同月17日頃、本件取り違えの発生を知らないまま、本件産院を退院し、原告は生物学上の親と生き別れの状態となった。同月2 1日、チヨ子の夫である亡江蔵(以下「董(ただし)」という。)により、名を「智」として、原告の出生届が提出された。上記経緯により、原告は、董及びチヨ子(以下「本件両親」という。)の長男として育てられた。なお、その後、本件両親の間には、二男が出生した。
(3)本件取り違えが判明した経緯
 チヨ子は、平成9年に入院した際に血液型を検査して、血液型がB型であることが判明した。原告は、既に判明済みであった董(0型)及び原告(A型)の血液型との関係で、上記結果は、原告が本件両親の間の実子であることと整合しないことから、別の病院で再検査をしたが、判定結果は同じであった。もっとも、原告は、当時、生物学上の親子間でも遺伝子の組み換えにより、血液型の不整合が生じ得る旨の新聞報道に接したため、本件両親どの生物学上の親子関係についてそれ以上の調査をしなかった。原告と本件両親は、平成16年に親子関係の存否を確認するためにDNA型鑑定等を受けたところ、原告とチヨ子との間、原告と董との間の親子関係がいずれも存在しない旨の結果となった。原告及び本件両親は、同年9月21日、被告に対し、昭和33年4月10日当時の本件産院で出生した新生児の氏名及び妊婦の住所氏名並びに新生児の保護者の住所氏名を教示するよう求める書面を送付したところ、被告の回答は、当時の診療録等の記録は既に全て廃棄されているから不明というものであった。 
 「報道発表資料」2025年5月29日 保健医療局
 「旧都立墨田産院での新生児取り違えに係る調査対応について
 東京都立墨田産院(閉院)での新生児の取り違え事件に係る判決を受けての調査について、本日、墨田区から、調査実施の基となる戸籍受附帳の写しを受領しましたことをお知らせします。今後、調査の対象となる方を把握するため、戸籍受附帳に記載された本籍の区市町村に対し、戸籍や住所等の情報を請求してまいります。調査に当たっては、対象となる方々の個人情報の取扱いに万全を期すとともに、それぞれの方の御心情に配慮した丁寧な対応を行ってまいります。
 「お問い合わせ」保健医療局都立病院支援部法人調整課電話 03-5320-5873
 
都立墨田産院の跡地は、特別養護老人ホーム「はなみずきホーム」になっています。
東京都墨田区八広3丁目22-14
産院を選ぶときは、通常なら自宅から至近距離か里帰り出産でも同様と思います。
 
 
https://maps.app.goo.gl/aAkLo3rzKwLmY1db6 
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報道記録から(2025年4月 ニュースウオッチ9などで放送) 
2025年4月25日 15時33分
あなたの体にお父さん、お母さんの血は1滴も流れていません
46歳でDNA鑑定をした時、医師に言われた言葉に頭が真っ白になりました。
その後、都立病院で生まれてすぐに、別の赤ちゃんと取り違えられたことを知りました。
人生を狂わされました。
本当の両親はどこにいるのか。いまも捜し続けています。(取材 社会部記者 出原誠太郎)
ほかの家族とは違う”違和感”
わたしは江蔵智といいます
1958年、墨田区の都立病院「墨田産院」で生まれ、父親、母親、3歳離れた弟と暮らしていました。
いま思えば生まれてからずっと、ことばでは表現できないような違和感がありました。
幼いころから身長が高かったのですが、私以外の家族は小柄でした。親戚の集まりで父親の弟から「おまえは誰にも似ていないな」といつも言われました。性格についても違いを感じることがありました。テレビを見て笑うところ、泣くところがほかの家族とあわないと感じていました。そのころは、どの家族でもそのぐらいの違いはあると思っていました。
“居場所はない”と14歳で家出
江蔵さんと父
中学生になると、酒を飲んだ父からたびたび暴力を振るわれ、不仲になりました。
「家の中に私の居場所はない」という気持ちが強くなり、14歳だった中学2年生の夏休みに、私は家を出ました。
知り合いの焼き肉店に住み込んで働きましたが、1か月後、どこからか情報を聞きつけた母親が突然店に来て、家に連れ戻されました。でも、やはり家にはいたくありませんでした。そう両親に伝えると、学校に通い続けるという条件で許してもらい、隣町のクリーニング店に住み込んで働くことになりました。中学校を卒業すると、建築会社、運送会社、飲食店などさまざまな仕事を経験し、30代で自動車販売関係の仕事を始めました。家に戻らず、家族には毎月仕送りをして、ときどき連絡をとる程度でした。
血のつながりはなかった
真実を知るきっかけは、私が39歳のとき、母が体調を崩して入院したことでした。
母の血液型がB型だと初めて分かりました。
父はO型です。A型のわたしが生まれるはずがなく、血のつながりについて疑問を持ちました。正直、母の不倫も疑いました。すぐにでもDNA鑑定をしたかったのですが、相談した医師から400万円から500万円かかると言われ、踏みきれませんでした。半年後、新聞か何かでO型とB型の両親からA型が生まれるという記事をたまたま見つけました。本当かどうかは分かりませんが、このケースだと自分に言い聞かせました。46歳のとき、私も体調を崩して病院に行きました。その時会った医師に両親との血液型の矛盾を伝えると、医師は大学の法医学の先生を紹介してくれました。大学の先生の計らいで、無料でDNA鑑定をしてくれることになりました。両親とともにサンプルを提供するとおよそ2週間後、再び大学に呼ばれました。そこで先生から言われたのが、「あなたの体にお父さん、お母さんの血は1滴も流れていません」ということばです。わたしは頭の中が真っ白になりました。
そして、14歳で家を出たときをフラッシュバックのように思い出しました。家族との性格の違い、なんとなく抱いていた違和感も血縁がないせいなのではないかと思いました。
病院での取り違え 明らかに
すぐに両親と会い、話し合いました。その結果、生まれた都立病院の墨田産院で別の赤ちゃんと取り違えられたとしか考えられない、という結論になりました。
墨田産院はすでに閉院していたため、都に問い合わせました。
すると、窓口の担当者は「でっちあげだ」などと言って信じてくれず、取り合ってもらえませんでした。
真実を知るにはこれしかないと思い、私と母は2004年、都に賠償を求める裁判を起こしました。
そこでも都は、「取り違えはなかった」と否定しましたが、2年後、東京高等裁判所は「重大な過失で人生を狂わせた」として取り違えを認め、都に賠償を命じました。
本当の両親はどこに?
血のつながりがないと分かってから、わたしは生みの親に会って話したいと思うようになりました。
当時公開されていた住民基本台帳をもとに誕生日が近い80人ほどをリストアップしました。
そして1軒ずつ訪ね歩きました。
会えたときは、私の裁判について書かれた新聞を見せて「墨田産院で生まれた人はいませんか」と聞きました。
みなさん、丁寧に対応してくれました。
当時は福岡県で働いていたので、墨田区まで通って調査するのは大変でしたが、これしか方法はありませんでした。2年間、こうした調査を続けた結果、墨田産院で生まれた何人かと会うことはできました。
しかし血液型があわなかったり、両親と顔がまったく似ていなかったりで手がかりは得られませんでした。
私は諦めきれず、墨田区に「戸籍受付帳」の情報公開請求を行いました。
戸籍なら当時生まれた人の情報が分かると思いました。しかし、公開された資料のほとんどが「個人情報にあたる」として黒塗りでした。裁判で取り違えが認められたあと、その責任がある都に再度、生みの親について調査をするよう求めました。しかし都は「カルテを探したが見つからず、これ以上対応することはできない」と言って、それ以上の調査はしてもらえませんでした。
私にできることはなくなっていきました
血はつながらなくても
福岡県から墨田区に通って生みの親を捜し続けるうちに、都内にある実家にも頻繁に帰るようになりました。そして50代に入ったころ、両親と一緒に住むようになりました。
家出して以来、年に2度ほどしか会っていなかったので、同居すると両親の衰えを感じることが多くなりました。
そして、「家出するまでの14年間育ててくれたのだから、恩返ししないといけない」と、自然と思うようになりました。
父親は、わたしと血縁がなかったことや実の子どもについて、あまり興味を示しませんでした。「取り違えが分かっても、せがれはせがれだから」とよく話していました。
それが私に気を遣って言っていたのか、父親は10年前に亡くなったため、本心は分かりません。
母親はここ数年で認知症が進み、意思疎通がほとんど取れなくなりました。
いまは老人ホームにいて、定期的に会っています。
元気なころ、「血がつながっていなくても親子であることには変わらない。でも私が生んだ子どもがどうなっているのか、一目でいいから会ってみたい」と話していました。
実の子どもと会えていない両親も、取り違えの被害者なのです。
裁判所が出自の調査を命じる
血縁がないことが分かってから17年後の2021年、私は最後の望みにかけて、都に調査を求める訴えを起こしました。裁判は4年におよびましたが、今月21日、東京地方裁判所は私たちの訴えを認め、都に戸籍をもとにした調査を命じました。裁判所は出自を知る権利を憲法13条が保障するものと認めました。
戸籍をもとに可能性のある人を特定し、DNA鑑定の協力を依頼して実施するなど、調査方法も具体的に指定しました。判決が言い渡されるまで神に願うような気持ちでしたが、訴えを認めていただき、裁判所には感謝しています。真実を知ってからこの日まで、20年あまりがたちました。ものすごく長い時間だったので、判決の結果を母に知らせてもわからないだろうし、なんとも複雑な気持ちです。そして、私の生みの親もおそらく母と同じく高齢で、元気かどうか分かりません。母と私には時間がありません。
東京都は控訴せず、すぐにでも調査してほしいと思います。
取材後記
東京都は今月25日、控訴せずに調査を実施すると発表しました。
江蔵さんのようなケースが全国でどれほど発生していたのか。厚生労働省やこども家庭庁は調査をしておらず、詳しい実態は分かっていません。一方、1973年の日本法医学会の学会誌には、東北大学の赤石英名誉教授などが全国の法医学教室などに調査した結果として、1971年までの15年間で少なくとも32件起きていたと記載されています。別の月刊誌には、この時期に取り違えが多発した背景について、主な出産場所が自宅から分べん施設に変わり、病院で助産師や看護師の数が不足していたことを挙げています。江蔵さんや両親が本来歩むはずだった人生は、もう取り戻すことはできません。取り違えというミスを犯した病院側は、せめてこの先の人生の手助けになるよう、誠実な対応が求められていると思います。(4月21日 ニュースウオッチ9などで放送)
 社会部記者 出原誠太郎
2018年入局福島局を経て、2023年から社会部、現在は司法クラブで裁判取材を担当 
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都立墨田産院は「東京都墨田区八広3丁目22-14」にあった。